ポイントとなる証言
ページ(文庫) | 証言 | 解説 |
302 | まあそういうわけで、二百万のサウナ風呂って、出かけて行ったの。
(中略) |
二百万 今で言えば2000万か。 かなりのものだ。あるところには、あるのだ。 アラン・ドロンそっくりの美男子 |
310 | 結構な奥さん方も、沢山来ているみたいだった。これなら儲かるだろうと思ったわよ。二百万の入会金を七十人からとったって、一億四千万でしょ。会員は百七十人いるって話だったわよ、その当時で。 | 会員は百七十人いるって話 これが本当なら、3億4千万円であり、今で言えば34億円ということだ。 ほほお。かなりのものだ。 そんな、ばしっと成功したようなビジネスをやっておきながら宝石を騙し取っていた富小路公子って。 |
312 | 「まあ、あなたが社長さん?まさかね」 「いえ、私が社長でございます」 「だって、あなた、このビル全部の持主でしょう?」 「はい」 「ちょっと若すぎるから面喰っちゃったのよ。失礼だけど、お幾つ?」 「昭和二十一年生れでございます」 「え?あなた、戦後生れなの?まあ」 驚いたわよ。五年ばかり前なんだから、二十代の若さじゃないのよ。まるきりお嬢さんみたいでさ、きびきびしていて。 |
五年ばかり前なんだから、二十代の若さ この証言の取材時期を、1978年としている。五年前といえば、1973年。このとき富小路公子は37歳である。 それを、サバを読んで27歳と思わせたということか。 |
314 | 彼女が死んでから、いろいろ書かれて、本当は昭和十一年生れだってことや、田園調布の豪邸が二重三重の抵当に入っていたことや、借り倒された銀行が、慌ててあのビルを差押えようとしたことも知ったけど、それがどうして悪女なのさ。
(中略) 私が買ったダイヤモンドは、無傷で、色はフェア・ホワイト、カットも極上でね、十四カラットあるのよ。店には決して、はめて出ませんけどね。ついこの間もミキモトで見てもらったけど、 |
田園調布の豪邸が二重三重の抵当に入っていた まあ銀行から借り入れる手段として、普通のやり方だと思うが、疑問なのは、富小路公子にキャッシュフローはなかったのか?ということ。 サウナ経営で3億以上の収入を得ていながら、また宝石による利潤をかすめていながら・・・と思ってしまうのだが。 サウナ経営で170人も集まっていなかったのか。 はたまた飛躍させて、利益を投資するという意識がまったくなかったとか。 宝石の鑑定なんて 本人がいいと思ってるんだからいいじゃない、本物にこだわるのは、価値がわからない低い意識の話だ、とかそういうことを示したいのだと思うが・・・ でもねえ。騙した人間がいて、騙された人間がいるわけだしねえ。・・・ 関係ないが、銀座のバアのマダムが篠原涼子だったら、どうだろう。うーん穏やかではいられないな。 |
ここまでの富小路公子
※富小路公子の誕生日を1936年10月8日で確定し、死亡日を1977年10月8日と仮定しています。
時期 | 年齢 | 出来事 | 備考 |
? | ? | 丸井牧子とともに、算盤塾に通っていた。 尾藤家に出入りしていた。 貰いっ子である嘘をついていた。 |
小学生のとき。 |
1951年 | 14歳 | 鈴木君子の父が死亡。八百政をたたんで尾藤家に移る。 | 中学三年のとき。 |
1952年3月 | 15歳 | 簿記学校の夜学に現れる。 | |
1952年春頃 | 15歳 | 昼間、沢山の宝石店に働きに出る。 宝石職人のところへ出入りしはじめる。 |
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1952年6月 | 15歳 | 簿記三級の試験。合格。 早川松夫に送ってもらう。 |
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1952年夏 | 15歳 | 沢山と関係をもつ。 日本橋の中華料理屋で働きはじめる。 |
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1952年秋頃 | 15歳 | 渡瀬義雄と出会う。 | 沢山栄次は簿記学校に現れなくなった。 |
1952年12月 | 16歳 | 渡瀬義雄との同棲がはじまる。 簿記二級の試験。合格。 |
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1953年4月 | 16歳 | 渡瀬義雄との婚姻届を出す。 | |
1953年春-夏? | 16歳 | 宝石を持ち込む。一部を残して売り、大内三郎に送ってもらい尾藤家へ。 | エメラルド、サファイアのうちどちらかを残して売った。 尾藤家に行った理由は宝石返却? |
1953年秋 | 16歳 | このころ、長男義彦を妊娠。 | |
1953年冬 | 17歳 | 宝石店を辞める。 | |
1954年年明け | 17歳 | 中華料理屋を辞める。 | 渡瀬義雄がアパートから出て行く。 |
1954年夏 | 17歳 | 沢山家を訪れる。 長男義彦を産む。 |
部屋の名札は「渡瀬公子」(渡瀬義雄)。 部屋は七号室。 |
1954年秋 | 17歳 | 中華料理屋で再び働きはじめる。 | 本郷のアパートに住む。 林梨江との付き合いがはじまる。 |
1955年年明け頃 | 18歳 | 麻布のアパート(渡瀬義雄のアパート)に戻ってくる。 | 義彦はすでに鈴木タネが預かっている。 養子縁組。義彦を鈴木タネの養子とした。 |
1955年春 | 18歳 | このころ、次男義輝を妊娠。 | |
1955年春-夏? | 18歳 | 麻布のアパートを引払う。 | |
1955年12月 | 19歳 | 次男義輝を産む。 | |
1957年春頃 | 20歳 | 尾藤家に再び出入りし始める。 宝石買取など。 |
エメラルドと翡翠が返ってこなかった。 |
1957年 -1959年 |
21歳 -23歳 |
簿記一級合格??
※時期的な根拠なし。21歳-23歳の時期の数年間が空白なため。 ※もしくは17-18歳の頃に合格してるか |
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1959年 | 23歳 | 渡瀬家に乗り込み、狂言で服毒自殺を図る。 手切れ金として五千万円を得る。 |
渡瀬義雄と協議離婚。 |
1960年 | 24歳 | 日本橋の中華料理屋を購入。 フランス料理屋「モンレーブ」とする。 富本寛一と出会う。 |
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1961年 | 25歳 | 富本寛一と交際。 | |
1962年春-秋? | 25歳 | 富本寛一と結婚。 | 日本橋にビルを建てようと計画。 結婚して一月後には神宮前のアパートに住む。 烏丸瑤子と出会う。 |
1963年春-夏? | 26歳 | 田園調布の富本家を新築。 日本橋にビルを建てる。 |
「富小路」の性を使い始める。 |
1963年秋-冬? | 27歳 | 大内三郎と再会する。 ビル内の宝石店に引き抜く。 |
宝石屋を辞めて約十年後のこと。 林梨江にも声をかける。 |
1964年4月3日 | 27歳 | レイディズ・ソサイエティにビジターとして現れる。 | |
1964年? | 28歳頃? | 富本寛一と離婚。 | 富本宮子・寛一親子は神田のアパートへ出る。 |
1965年 | 29歳頃? | 長男義彦、次男義輝を田園調布に引取る。 | |
1967年 | 31歳 | レイディズ・ソサイエティに入会。 マルチーズ「光子さま」癲癇のため、北村院長はじめての往診。 |
申込書に昭和二十一年生まれと記入する。 |
1970年 | 34歳 | マルチーズ「光子さま」全犬種展で優勝。 | 以前に単犬種展でも優勝している。 |
? | 36歳頃? | 尾藤家跡地にドリーム・ハイツが建つ。 | 土地は沢山不動産が買う。 |
1973年 | 37歳 | すでに女性のためのクラブを経営している。 | |
? | 38歳頃? | 丸井牧子を訪問。バラの造花をプレゼント。 | |
1977年10月 | 40歳 | 早川松夫と再会する。 宝石職人にロイヤルゼリーを届けに行く。 |
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1977年10月7日 (金曜日) |
40歳 | 早川松夫と電話。食事の約束をする。 | |
1977年10月8日 (土曜日) |
41歳 | 死亡。 | 二時以前の出来事。 夕刊に「虚飾の女王、謎の死」。 昼なのにイヴニング・ドレスを着ていた。 |