その二十五 尾藤輝彦の話

ポイントとなる証言

ページ(文庫) 証言 解説
413 御明察の通りですよ。僕は富小路公子の愛人です。いや、愛人だったと言うべきでしょうか、彼女は死んでしまったのだから。
僕が檜町小学校で五年生になったとき、彼女は鈴木君子という名で新入生として僕の目の前に現れました。可愛い女の子でした。僕の学年では、男の子たちが騒然としたくらいです。
檜町小学校
檜町小学校の歴史。明治二十二年に、赤坂小学校仮校舎を中之町分校として開校。昭和二十一年に檜町国民学校として改称、ということらしい。そして、平成五年に氷川小学校と統合して赤坂小学校となったらしい。
つうことは、昭和二十一年までは檜町小学校という言葉はなかったのではないか?
尾藤輝彦が入学したときは昭和十三年ごろになると思うんだが・・・
有吉佐和子が調査してなかったってことでしょうか。
415 僕は大学に入るとすぐアルバイトを始め、働いて現金を握るという喜びから、いきなり生きるということに自信を持ち出していたのです。

(中略)
「僕もね、働いているんだよ。アルバイトだけど、お金があるんだ。君の都合のいいときに、映画でも見ない?」
とデートの申込みをしたのです。

大学に入るとすぐ
やっぱり尾藤輝彦は、浪人していたと考えないと計算がおかしくなると思うんだよ。
だって、大学に入ってすぐ映画に誘って、その帰りを鈴木タネに見つかって大騒ぎになるわけでしょ。てことは、尾藤家に引取られて一年ほど経過してるから、鈴木君子は中学を卒業して働いているときなのだ。つまり15歳から16歳になるとき。尾藤輝彦が四つ上なんだから、19歳から20歳になるときであって、それはやはり浪人でないと大学一年にならない計算だ。
417 僕は黙って、つまり言いたいことがあまりにも多くて、黙々として映画館を出ると、一緒に帰途につきました。
シャムの王様って、沢山宝石を持っていたのねえ。お兄ちゃまのお母さまも、昔は、ああいうお暮しをしていらしたのかしら」
「でも、日本があれほど封建的だった筈はないわねえ。女の方が、宝石で身を飾っていたのでしょう?」
「王様の暮しって、やっぱり夢みたい。それに、王子さまが即位するとき、素晴らしかったわね。新しい時代を作ろうとしていたのですものね。私、心が熱くなって、涙が止まらなかったわ」
シャムの王様
1946年の映画「アンナとシャム王(原題:Anna And King of Siam)」のこと。原作はマーガレット・ランドンの小説。
これが後にブロードウェイ・ミュージカルとしてヒットしたので、再度映画化されたリメイク版が1956年の「王様と私(原題:The King And I)」である。

新しい時代を作ろうとしていた
なんか意味深い言葉だと感じられませんか。
野望を抱いた自分を重ね合わせたかのような言葉。宝石をたくさん持った王になるという意思が現れているようで。

418 檜町の家に着き、勝手口のくぐり戸を身をかがめてすり抜けたとき、僕は夢中で彼女を抱きしめてしまった。生れて初めての接吻です。彼女は抵抗しなかった。僕は息が止まるほど、彼女の唇を吸い、抱きしめたまま棒のようになっていました。
そのときですよ。耳のすぐ傍で、
「この野郎!何しやがんだ!この泥棒猫め!」
いきなり罵声が、僕に浴せられたのです。彼女の母親だと気がついたとき、僕は驚愕して、今から思えばだらしのない話ですが、庭の方へまわって逃げた。
僕は夢中で彼女を抱きしめてしまった
1952年6月の時点で、早川松夫に送られているので、その後ということになるな。
422 ともかく僕は若かったし、むろん彼女も若かった。その夜、僕は金を持っていましたから、
「君ちゃん、どこかへ行こう」
と大胆に言い出し、どんどん歩いて、彼女は黙って従いて来ました。彼女を最初に抱き寄せたのが、連れこみ宿とか、さかさくらげとか呼ばれているような場所だったのは、今でも残念に思っています。しかし、僕も夢中で、激情の中で二人は結ばれました。「お兄ちゃま、お兄ちゃま」と彼女は譫言のように口走っていました。もちろん処女でしたよ。どうしてそんな質問をなさるんです?彼女は十六歳で、僕は二十歳でした。二人とも初体験だったのは、当然じゃありませんか。
その夜、僕は金を持っていました
この前の記述で、鈴木親子が尾藤家から出ていって一ヵ月ほどあとの時点だとわかる。
つまり夏だ。

鈴木君子の最初の相手が、尾藤輝彦なのか沢山栄次なのかわからない構成になっているのだねえ。
これをまとめるにあたって、おそらく沢山が最初の相手だったのだろうと思っていたが、もしかしたら尾藤のほうが先かもしれないと思いました。

423 それからずっと二十年間、彼女が死ぬまで、僕たち二人の関係は続きました。彼女は僕の子供を二人も産みましたし。え?義彦にはもうお会いになったのですか?僕によく似ていたでしょう?次男の方は、僕の祖父—母方のですが、にそっくりなのです。 僕によく似ていたでしょう?
次男は、尾藤の子ではなく、沢山の子だということ。
426 「鈴木君子さんを、お願いします」
「—こちらは中本産婦人科病院ですが、鈴木さんという方は御入院してらっしゃいませんが。渡瀬君子さんの間違いじゃないでしょうか?
「ああ、苗字がよく分らなかったんです。ともかく君子さんを呼んでもらえますか」
渡瀬君子さんの間違いじゃないでしょうか?
最初の出産のときは、「その六 里野夫人の話」にあるように、アパートの人が世話をしたのだ。だから、当然渡瀬という名前になったのだろう。
427 僕にはどうしていいか分らなかったけれど、すぐその足で飛んで行った。麻布の、分りやすいところにありましたから、病院を見つけるのは簡単だった。
二階の七号室に上って行くと、「鈴木君子」という表札が出ている。電話に出た女が鈴木君子という名の入院者はいないと言って、別の苗字を言ったのは何かの間違いだったのだと思いました。
「鈴木君子」という表札が出ている
その四 渡瀬義雄の話」によると、表札は「渡瀬公子」だったそうで。
このような描写はこの二回しかない。だからなんとも判断ができないんだよな。
せめて沢山栄次のときも、同様のシーンがあればもう少し判断できるのに。

まあおそらく、鈴木君子本人が変えたのですかね。相手を気遣って。

428 僕の子供の足首に「鈴木七」と書いた木の札がくくりつけてあるのを複雑な思いで見ていました。
「ここにかけたら、鈴木君子という人は入院していませんと言うんだ。なんとかいう別の苗字の人なら名前が君子だって」
「ええ、鈴木という人が今は三人も入院しているのね。だから、病院も困ってるみたいよ。この子は、七の鈴木と呼ばれているわ。七号室だから。名前は、義彦とつけたいのだけれど、どうかしら」
足首に「鈴木七」と書いた木の札
やはり「その四 渡瀬義雄の話」でも、足首の木の札については説明してある。ただなんと書いてあったのかまではわからないが。
たぶんこれも取り替えたんでしょうなあ。
よくできた話だ。
429 「明日でもいいわ、バラの花を、三つか四つでいいの、届けて下さらない?」
え?他にも、花はなかったか?いや、気がつきませんでしたが、どうしてですか?
ともかく僕は、言われた通り、翌日バラの花を届け、彼女の母親に見つからないように、病院の入口で看護婦に渡し、七号室に届けるように言って、すぐ帰りました。
他にも、花はなかったか?
気がつかなかったということは、花がなかったんだろう。
それにしてもこのエピソードは何だったんだろうなあ。
430 「義彦に義輝か。どうして、義という字をどちらにも使うの?」
そう訊いた僕に、彼女が胸を張って答えた言葉は、忘れられません。
私、正義という言葉も文字も大好きなの
私、正義という言葉も文字も大好きなの
明らかに渡瀬義雄の籍に入れるためであろうが、正義という言葉を揶揄しているともとれる。
正義じゃないことは百も承知だが、ベストの選択はこれしかないのだ、という意味で。
432 え?声?声って、なんですか?
セックスについて、ですか。随分露骨な御質問ですね。彼女は、むしろ淡白な方だったのではないかと思いますよ。
むしろ淡白な方
花、セックス、など最後まで意図がよくわからないキーワードが多い。
432 父が死んで、相続税がどかんと来たとき、僕は狼狽して彼女に相談しました。彼女は一級簿記の勉強をして税理士の資格をとっていましたから、即座に、地上権だけ残して、土地を不動産屋に売ればいいと教えてくれました。不動産屋も紹介してくれまして、母が死ぬまで、だから母は何も知らずにあの檜町の家で昔の夢を見ながら亡くなりました。母と家内の折合が悪くなったので、僕らがマンションに移れたのも、土地を売って税金を納めた後に金が残っていたからです。
母が死ぬと、また相続税がかぶさって来ました。それで地上権も手放したのです。どうせ、あんな大きな家は、僕のようなサラリーマンには維持しきれないと思ったし、第一、日本は土地が高騰しすぎましたよ。
不動産屋も紹介してくれまして
おそらく沢山不動産だろう。
その三 浅井雪子の話」によれば、尾藤の母が亡くなったのが五年前だから、1973年頃。そのときに、地上権を手放したのか。
433 日本橋に大きなビルを建てたとき、社長室の隣に、彼女好みの寝室を作って、合鍵を一つ僕にくれました。ニューヨークに行くまで、週に一度ないし二度は必らず逢っていました。二十三年も、僕たちは飽きることを知らなかったのです。 合鍵を一つ僕にくれました
この描写、尾藤輝彦だけだったのかどうなのか。
433 ニューヨークには、家内も連れて半年後に来ましたが、その前に、君子が来ています。一週間ほどでしたが、そのときが僕らにとって初めての体験でした。夜から朝まで一緒に過ごしたのは。彼女には母親がいましたし、子供もいましたし、僕も世帯持ちになっていましたから、夜は必らず別れなければならなかったのです、それまでは。彼女は「夢みたい、夢みたい」と何度も言っていました。 その前に、君子が来ています
別の箇所で説明があるが、尾藤輝彦は日本を四年間はなれていた。だから、半年前っていう時点は、今から三年半前だということになる。1973年春頃か。
434 五番街を歩いていたとき、四十八丁目あたりの宝石店で、すぐ隣に模造品を売る店があるのを知ったとき、彼女は立ちすくんで、
「こわいところね、ニューヨークは。やっぱり。本ものと、ニセものが、堂々と並んでお店を張っているなんて。まああ。この指輪は、カットもデザインも、あちらのウィンドウにあるのと、そっくりだわ」
と、蒼ざめて呟きながら、勉強のためにと模造品を山のように買ったのを思い出します。
(中略)
「ご免なさい。日本は昼間なんだけど、お起ししたのね」
国際電話でしたから、本社から自宅によくかかるもので、僕がすぐ電話に出たのですが、彼女の口調は明るく弾んでいました。
「十日ほどしたらハワイに行くことになったの。そのあと一人でニューヨークに行こうと思っていますけれど、輝彦さんが出張だったら大変だと思って」

(中略)

彼女が死んだのは、僕に電話をしてきた直後としか考えられません。あんなに機嫌のいい声で、二週間先に逢えると言っていながら、自殺するなんて、誰が思いますか。当然他殺か、でなければ事故死でしょう。警察はどう言っているのです?

模造品を山のように買った
尾藤輝彦の話は、いろいろと真実が明らかになっているが、なかでも一番大きいのがこれだろう。
ニューヨークで、模造品を買い、それを日本で使うと。

日本は昼間なんだけど
その二十三 小島誠の話」に関連してるが、小島誠が部屋から出ていったあと、ショコラ・ムースを注文しての直後なんだろう。
その七 大内三郎の話」にもあったが、彼は報告を二時に受けている。
だからやはり、窓から落ちたのは、電話のあとすぐだったのだ。

結局、鈴木君子の最初の相手が、尾藤輝彦だったのか沢山栄次だったのか、という問題ですが、今さらだけど、「その九 沢山栄次の話」の中で、「二級の合格祝いにプレゼントを贈り、そのまま関係をもつことになった」という記述を見つけてしまった。
簿記二級パスは1952年12月のことであり、これが事実ならばかなり計算が狂う。
その時期になってから、夜は中華料理屋で働き始めたのだから、渡瀬義雄と出会うのももっと後というわけだ。
その二十一 鈴木タネの話」によれば、尾藤家を出て中野のアパートに移ってから「夜は中華料理屋で働いて」いたと話しているので、中野に移る時期もそこらへんにずれる。
だから、1952年6月に三級をパスして、その後秋頃に尾藤家を出ることになり、その後、中華料理屋で働き始めたということか。

それであれば、やはり尾藤輝彦が最初の相手か。
「彼女は十六歳で、僕は二十歳でした。」という証言はあってたことになりますな。

ここまでの富小路公子
※富小路公子の誕生日を1936年10月8日で確定し、死亡日を1977年10月8日と仮定しています。

時期 年齢 出来事 備考
1936年10月8日 0歳 檜町にて生まれる。 父は鈴木国次、母は鈴木タネ。
1943年4月 6歳 檜町小学校に入学。 (小学生のとき)
尾藤輝彦に出会っている。

丸井牧子とともに、算盤塾に通っていた。
尾藤家に出入りしていた。
貰いっ子である嘘をついていた。

1951年 14歳 鈴木君子の父が死亡。八百政をたたんで尾藤家に移る。 中学三年のとき。
1952年3月 15歳 簿記学校の夜学に現れる。  
1952年春頃 15歳 昼間、沢山の宝石店に働きに出る。
宝石職人のところへ出入りしはじめる。
 
1952年6月 15歳 簿記三級の試験。合格。
早川松夫に送ってもらう。
 
1952年秋? 15歳? 尾藤輝彦と「アンナとシャム王」を観に行く。
尾藤家を出て、中野のアパートに移る。
尾藤輝彦と関係をもつ。
ルビーの指輪、サファイアの指輪、翡翠入りの髪飾り、角ダイヤの帯止め、エメラルドと真珠の帯止めを得る。
沢山栄次は簿記学校に現れなくなった。
1952年12月 16歳 簿記二級の試験。合格。
沢山と関係をもつ。
日本橋の中華料理屋で働きはじめる。
 
1953年年明け 16歳 渡瀬義雄と出会う。
中野のアパートを出る。
渡瀬義雄との同棲がはじまる。
スター・ルビー、真珠のネックレス、ダイヤのペンダントを得る。
1953年4月 16歳 渡瀬義雄との婚姻届を出す。  
1953年春-夏? 16歳 宝石を持ち込む。一部を残して売り、大内三郎に送ってもらい尾藤家へ。 エメラルド、サファイアのうちどちらかを残して売った。
尾藤家に行った理由は宝石返却?
1953年秋 16歳 このころ、長男義彦を妊娠。  
1953年冬 17歳 宝石店を辞める。  
1954年年明け 17歳 中華料理屋を辞める。 渡瀬義雄がアパートから出て行く。
1954年夏 17歳 沢山家を訪れる。
長男義彦を産む。
部屋の名札は「渡瀬公子」(渡瀬義雄)。
部屋の名札は「鈴木君子」(尾藤輝彦)。
部屋は七号室。
1954年秋 17歳 中華料理屋で再び働きはじめる。 本郷のアパートに住む。
林梨江との付き合いがはじまる。
1955年年明け頃 18歳 麻布のアパート(渡瀬義雄のアパート)に戻ってくる。 義彦はすでに鈴木タネが預かっている。
養子縁組。義彦を鈴木タネの養子とした。
1955年春 18歳 このころ、次男義輝を妊娠。  
1955年春-夏? 18歳 麻布のアパートを引払う。  
1955年12月 19歳 次男義輝を産む。  
1957年春頃 20歳 尾藤家に再び出入りし始める。
宝石買取など。
エメラルドと翡翠が返ってこなかった。
1957年
-1959年
21歳
-23歳
簿記一級合格??

※時期的な根拠なし。21歳-23歳の時期の数年間が空白なため。

※もしくは17-18歳の頃に合格してるか

 
1959年 23歳 渡瀬家に乗り込み、狂言で服毒自殺を図る。
手切れ金として五千万円を得る。
渡瀬義雄と協議離婚。
1960年 24歳 日本橋の中華料理屋を購入。
フランス料理屋「モンレーブ」とする。
富本寛一と出会う。
 
1961年 25歳 富本寛一と交際。 水曜日は、子供に会う日としていた。
1962年春-秋? 25歳 富本寛一と結婚。 日本橋にビルを建てようと計画。
結婚して一月後には神宮前のアパートに住む。
烏丸瑤子と出会う。
1963年春-夏? 26歳 田園調布の富本家を新築。
日本橋にビルを建てる。
「富小路」の性を使い始める。
1963年秋-冬? 27歳 大内三郎と再会する。
ビル内の宝石店に引き抜く。
宝石屋を辞めて約十年後のこと。
林梨江にも声をかける。
1964年4月3日 27歳 レイディズ・ソサイエティにビジターとして現れる。  
1964年? 28歳頃? 富本寛一と離婚。 富本宮子・寛一親子は神田のアパートへ出る。
1965年 29歳頃? 長男義彦、次男義輝を田園調布に引取る。  
1967年 31歳 レイディズ・ソサイエティに入会。
マルチーズ「光子さま」癲癇のため、北村院長はじめての往診。
申込書に昭和二十一年生まれと記入する。
1970年 34歳 マルチーズ「光子さま」全犬種展で優勝。 以前に単犬種展でも優勝している。
1971年 35歳 この頃から、テレビ出演がはじまる。
すでに「東京レディス・クラブ」を経営している。
戸籍上でも本名は「鈴木公子」となっている。
戸籍係を買収?
マルチーズ「光子さま」が死んだと嘘をついた。
小島誠が「東京レディズ・クラブ」でアルバイトをはじめる。
36歳頃? 尾藤家跡地にドリーム・ハイツが建つ。 土地は沢山不動産が買う。
1973年春 36歳 小島誠を「東京レディズ・クラブ」の支配人に抜擢。
ニューヨークで、尾藤輝彦と一週間過ごす。
 
1973年 36歳 「東京レディス・クラブ」で銀座のバアのマダムに挨拶している。  
1973年秋 37歳 小島誠と関係をもつ。  
38歳頃? 丸井牧子を訪問。バラの造花をプレゼント。  
1977年10月 40歳 早川松夫と再会する。
宝石職人にロイヤルゼリーを届けに行く。
 
1977年10月7日
(金曜日)
40歳 早川松夫と電話。食事の約束をする。  
1977年10月8日
(土曜日)
41歳 小島誠にドレスを見せている。
ショコラ・ムースを注文。
尾藤輝彦と電話で話す。

死亡。

二時以前の出来事。
夕刊に「虚飾の女王、謎の死」。
昼なのに赤いイヴニング・ドレスを着ていた。
十日後にはハワイで挙式の予定だった。
その後ニューヨークへ行く予定だった。