その二十四 長男義彦の話

ポイントとなる証言

ページ(文庫) 証言 解説
386 僕だって小さい頃は、もちろん母が嫌いだなんてことはなかったのです。
水曜日になると、山のように土産を抱えて、母は僕たちに会いに来ました。僕も弟も、無邪気に母を歓迎しました。母を美人とは思いませんが、雰囲気に何か花やかなものがありました。
水曜日
その十四 富本寛一の話」にもあるが、水曜日と日曜日は仕事を休む日だった。で、水曜日は子供たちに会いに中野を訪れる日だったのだ。
日曜日は?本当の休みの日?
390 一度だけ、母が祖母に金を渡す現場を見てしまったことがあります。祖母が現金を押し頂いて受取っているのも奇異な光景でしたが、母がひどく高飛車な口調で、
「あなた、例の悪い癖は出してないでしょうね?私の子供に悪い影響を与えないように、しっかりしていて欲しいのよ。分ってる?本当に分ってるわね」
と言っていたのです。
例の悪い癖は出してないでしょうね?
その二十一 鈴木タネの話」にもある。タネの盗癖のことだ。
こういう喋り方をしてたんだろうか。長男義彦は、母に対しての評価がかなり低いので、潜在的に思い込んでいるともとれるが・・・
391 僕は小学五年生のときで、弟が四年生のとき、突然、僕ら二人は田園調布にある母の家に引取られました。学習院では教師が電車で通学することを奨励していましたが、母は自家用車で僕たち二人を四谷まで送らせたものです。僕には、わけが分らなかった。どうしてこんな大きな変化が起ったのか、さっぱり分らなかった。 学習院
長男義彦は、学習院に通い、東大に合格している。次男義輝も言うが、やはりこれで文句を言うのは贅沢というものだろう。
407 「ご免なさい、義彦ちゃん。私もあなたと一緒に血を流しているのよ。あなたを産んだとき、私は十七歳だった。今なら高校生で、母親になったのよ。十六歳のときに妊ったわ。私は義務教育を終るとすぐ働いていたのよ。私には実の母親もいなかった。お父さんもいなかった。義理のお父さんは、いい人だったけれど、その人は私が中学三年のとき事故死したのよ。中野のおばあちゃんに聞いてるでしょう?」 私には実の母親もいなかった
思うんだけど、長男義彦は母親の戸籍を調べようとは思わなかったのだろうか。
鈴木タネの子が鈴木君子だっていうのは、戸籍を調べればわかることじゃないか。
412 母の死ですか?
心当りはありませんが、殺されたんだと僕は思います。耀子に対するやり口からみても、深い恨みを持った人間が、母の周辺にはいたと思いますよ。戸籍係を買収してまで改名したくらい強引な人なのだから、仕事の上でも随分いためつけられた人々がいたんじゃないですか?
が、まあ、母の死について、僕は関心がないです。むしろ、結婚以来しつこく続いていた嫌がらせに終止符が打たれて、僕も耀子もほっとしたというのが実情です。子として言うべきことではないとも思いますが。
戸籍係を買収してまで改名したくらい強引な人
こんな描写、ほかでどこにも出てきません。終盤でいきなりなんでしょうこれは。
長男義彦の話は、特に重要なところは何もないが、この戸籍係を買収ってのは、いきなりびっくりする証言である。

「子として言うべきことではないとも思いますが」って、有吉節が炸裂しているなあ。

ここまでの富小路公子
※富小路公子の誕生日を1936年10月8日で確定し、死亡日を1977年10月8日と仮定しています。

時期 年齢 出来事 備考
1936年10月8日 0歳 檜町にて生まれる。 父は鈴木国次、母は鈴木タネ。
丸井牧子とともに、算盤塾に通っていた。
尾藤家に出入りしていた。
貰いっ子である嘘をついていた。
小学生のとき。
1951年 14歳 鈴木君子の父が死亡。八百政をたたんで尾藤家に移る。 中学三年のとき。
1952年3月 15歳 簿記学校の夜学に現れる。  
1952年春頃 15歳 昼間、沢山の宝石店に働きに出る。
宝石職人のところへ出入りしはじめる。
 
1952年6月 15歳 簿記三級の試験。合格。
早川松夫に送ってもらう。
 
1952年6月-夏? 15歳 尾藤家を出て、中野のアパートに移る。 ルビーの指輪、サファイアの指輪、翡翠入りの髪飾り、角ダイヤの帯止め、エメラルドと真珠の帯止めを得る。
1952年夏 15歳 沢山と関係をもつ。
日本橋の中華料理屋で働きはじめる。
 
1952年秋頃 15歳 渡瀬義雄と出会う。 沢山栄次は簿記学校に現れなくなった。
1952年12月 16歳 中野のアパートを出る。
渡瀬義雄との同棲がはじまる。
簿記二級の試験。合格。
スター・ルビー、真珠のネックレス、ダイヤのペンダントを得る。
1953年4月 16歳 渡瀬義雄との婚姻届を出す。  
1953年春-夏? 16歳 宝石を持ち込む。一部を残して売り、大内三郎に送ってもらい尾藤家へ。 エメラルド、サファイアのうちどちらかを残して売った。
尾藤家に行った理由は宝石返却?
1953年秋 16歳 このころ、長男義彦を妊娠。  
1953年冬 17歳 宝石店を辞める。  
1954年年明け 17歳 中華料理屋を辞める。 渡瀬義雄がアパートから出て行く。
1954年夏 17歳 沢山家を訪れる。
長男義彦を産む。
部屋の名札は「渡瀬公子」(渡瀬義雄)。
部屋は七号室。
1954年秋 17歳 中華料理屋で再び働きはじめる。 本郷のアパートに住む。
林梨江との付き合いがはじまる。
1955年年明け頃 18歳 麻布のアパート(渡瀬義雄のアパート)に戻ってくる。 義彦はすでに鈴木タネが預かっている。
養子縁組。義彦を鈴木タネの養子とした。
1955年春 18歳 このころ、次男義輝を妊娠。  
1955年春-夏? 18歳 麻布のアパートを引払う。  
1955年12月 19歳 次男義輝を産む。  
1957年春頃 20歳 尾藤家に再び出入りし始める。
宝石買取など。
エメラルドと翡翠が返ってこなかった。
1957年
-1959年
21歳
-23歳
簿記一級合格??

※時期的な根拠なし。21歳-23歳の時期の数年間が空白なため。

※もしくは17-18歳の頃に合格してるか

 
1959年 23歳 渡瀬家に乗り込み、狂言で服毒自殺を図る。
手切れ金として五千万円を得る。
渡瀬義雄と協議離婚。
1960年 24歳 日本橋の中華料理屋を購入。
フランス料理屋「モンレーブ」とする。
富本寛一と出会う。
 
1961年 25歳 富本寛一と交際。 水曜日は、子供に会う日としていた。
1962年春-秋? 25歳 富本寛一と結婚。 日本橋にビルを建てようと計画。
結婚して一月後には神宮前のアパートに住む。
烏丸瑤子と出会う。
1963年春-夏? 26歳 田園調布の富本家を新築。
日本橋にビルを建てる。
「富小路」の性を使い始める。
1963年秋-冬? 27歳 大内三郎と再会する。
ビル内の宝石店に引き抜く。
宝石屋を辞めて約十年後のこと。
林梨江にも声をかける。
1964年4月3日 27歳 レイディズ・ソサイエティにビジターとして現れる。  
1964年? 28歳頃? 富本寛一と離婚。 富本宮子・寛一親子は神田のアパートへ出る。
1965年 29歳頃? 長男義彦、次男義輝を田園調布に引取る。  
1967年 31歳 レイディズ・ソサイエティに入会。
マルチーズ「光子さま」癲癇のため、北村院長はじめての往診。
申込書に昭和二十一年生まれと記入する。
1970年 34歳 マルチーズ「光子さま」全犬種展で優勝。 以前に単犬種展でも優勝している。
1971年 35歳 この頃から、テレビ出演がはじまる。
すでに「東京レディス・クラブ」を経営している。
戸籍上でも本名は「鈴木公子」となっている。
戸籍係を買収?
マルチーズ「光子さま」が死んだと嘘をついた。
小島誠が「東京レディズ・クラブ」でアルバイトをはじめる。
36歳頃? 尾藤家跡地にドリーム・ハイツが建つ。 土地は沢山不動産が買う。
1973年春 36歳 小島誠を「東京レディズ・クラブ」の支配人に抜擢。  
1973年 36歳 「東京レディス・クラブ」で銀座のバアのマダムに挨拶している。  
1973年秋 37歳 小島誠と関係をもつ。  
38歳頃? 丸井牧子を訪問。バラの造花をプレゼント。  
1977年10月 40歳 早川松夫と再会する。
宝石職人にロイヤルゼリーを届けに行く。
 
1977年10月7日
(金曜日)
40歳 早川松夫と電話。食事の約束をする。  
1977年10月8日
(土曜日)
41歳 小島誠にドレスを見せている。
ショコラ・ムースを注文。

死亡。

二時以前の出来事。
夕刊に「虚飾の女王、謎の死」。
昼なのに赤いイヴニング・ドレスを着ていた。
十日後にはハワイで挙式の予定だった。