その二十三 小島誠の話

ポイントとなる証言

ページ(文庫) 証言 解説
362 僕は「東京レディス・クラブ」の支配人で、社長とは、そのォ、社長と社員という関係にすぎません。僕の年齢ですか?二十七歳です。もちろん掛け値なしですよ。本当です。昭和二十五年生れですから。大学を出るとすぐ此処に正式に就職しましたが、学生時代はアルバイトでパートのトレイナーをしていました。大学は体育大学出身です。 学生時代はアルバイトで
小島誠が大学を卒業する時期は、1973年頃。それ以前の学生時代からアルバイトをしていた。おそらくレイディズ・ソサイエティでアルバイトをしていて、東京レディズ・クラブへ引き抜かれたのではないかと思う。

あ、違う。アルバイトの面接を受けてるのか。

364 ええ、僕が、体操のトレイナーから支配人に抜擢されたのは、大学を卒業して正式に就職すると間もなくです。だから、彼女が死ぬ前の四年間が支配人です。 就職すると間もなく
1950年生まれならば、1973年3月に卒業なわけだ。それから間もなくということなので、1973年春には支配人に抜擢されいたと。
365 僕たち、婚約してました。
あの日から十日後には、ハワイで結婚することに決っていました。彼女は二度目の結婚だからと言って、ええ、再婚だということも、子供が二人いることも、僕には隠していませんでした。だけど、年齢については、昭和二十一年生れだと最初から言ってました。
アルバイトで面接試験を受けたとき、
「まああ。私より四つも若いの?まああ」
と言ってましたから。
十日後には、ハワイで
その二十五 尾藤輝彦の話」にも出てくるが、この、ハワイで結婚式を挙げて、その後尾藤輝彦に会いに行く予定だったようだ。
366 僕と彼女が結ばれたのは、恰度四年前です、彼女の死ぬ。
富小路事務所は、社長室の隣に、彼女が疲れたときや、考えごとをするために、寝室がありました。

(中略)
飛んで来た医者も看護婦も、顔を見れば知ってる人たちでした。宝来病院の副院長と主任看護婦です。あのォ、僕がアルバイトしてる頃から、彼女はテレビ出演し始めてましたが、僕、よくエスコートに呼ばれてたんで、知ってたんです。

恰度四年前
富小路公子の死亡時期を、1977年10月と仮定して進めているので、そのちょうど四年前となれば1973年秋頃か。

宝来病院
その二十六 宝来病院元婦長の話」にも出てくる。
やはり1971年頃からテレビ出演していたというので正解なんだろうな。

371 僕は、彼女が僕より四歳上だということ疑いもしていなかったから、子供、子供と彼女が言うのは、きっと幼稚園か、小学生ぐらいの男の子だと思ってました。
だから僕は、彼女が死んでから、週刊誌がジャカジャカ書きたてたの見て、本当にびっくりした。僕より四つ年下じゃないですか、長男が。だけど、彼女が四十過ぎてたってことだけは、今でも信じられないんです。昭和十一年生れだったなんて—。彼女の躰は柔かくて、抱きしめると胸の下で溶けてしまいそうだった。バストも豊かでしたよ。中年肥りなんてしていなかったし、ウェストは、体操もしないのに、きゅっとくびれてましたしね。肌も若かったなあ。レディス・クラブに四十女はごまんと会員になってるけど、彼女は、皮膚には一点の汚点がなかったし、顔にも皺がなかったし、躰つきからいったって、四十になんかなってなかったですよ。僕より十四も年上だったなんて、戸籍の方がどうかしてるんじゃないかなあ。
え?声って、なんですか?
ああ、あのときの声?どうしてそんなこと知りたいの?本当に愛しあってる男女なら、どっちだって声が出るの、当然でしょう?僕はまあ、他に女を知らないってわけじゃないけど、あのくらい普通じゃないのかなあ。
それに、セックスの方も、まるで処女みたいで、子供二人産んだの信じられないくらいでしたよ。恥しがりでね。女ひとりでバリバリ働いてるときの大胆さとか、社長として威厳に盈ちて僕らに君臨しているときとは、まるで別人のようでした。
あのときの声?
文意からすると、淡白だったということか。
これについては、何を言いたかったのか不明のまま。
富本寛一のときだけ反応が違ったのは、それだけ愛していたという意味ではなく、意図的にオーバーアクションで貫いたということを示しているのか。

しかし、四十代なのに三十代の体だったなんて・・・ありえるんでしょうかねえ。どうだろう。

376 とにかく、僕は押しの一手で、逢っても、別れても、電話でも、結婚しようと三年間言い続けていたんです。
「そうね」
と、ある日、彼女は考え深げに言いました。
「神様の前で結婚すればいいのよね。そうすれば、あなたの心が落着くでしょうね」
「僕だけじゃないと思うよ」
「ええ、私も、ね?でも誠さん、本当に誓える?神様の前で、一生私を愛しぬけるってことを?」
「誰の前でだって誓えるよ」
「じゃ、ハワイへ行きましょう。少し通俗的だけど、外国の教会で結婚式をしましょう。私は外国に出ると、睡眠薬がなくても眠れるのよ」
ハワイへ行きましょう
式を挙げるだけで、籍は入れないという意味だろうか。

あと、ここで神様なんていう言葉が出てくる。富小路公子はかなり理詰めというか合理主義的なところがあるが、神様とかそういう言葉を出しているってどういうことなんだろうな。

379 燃えるような赤いドレスを着て、彼女が立っていたじゃありませんか。長い裾を曳いて、彼女は白い歯を見せて、頬笑み、
「驚いた?これに決めたんだけど」
「まっ赤とは意外だった。でも、よく似合うよ」
「日本の古い花嫁衣裳に、赤無垢というのがあるのを何かの本で読んだの。これで白い胡蝶蘭を持てば」
僕は抱きしめて口吻しようとした。ところが、この日、初めて彼女は抵抗したんです。「駄目よ、駄目。結婚式のドレスなのよ、これは。式より前にそういうことは、いけないの」
「どうして、昨夜も僕はこの部屋で」
「それと、これは、別なの」
どうして別なのか分らなかったけど、彼女が嫌がるのを強引にキスすることもないし、僕は腕を解きました。
この日、初めて彼女は抵抗したんです
なんか含みのある描写ですが、よくわからない。
更年期障害のひとつ?精神的に混乱したということだろうか。それとも、そういう儀礼的なことに敏感だったということだろうか。

よくわかんないなあ。
この時点では、もうあと数回で連載終了のことはわかっていたんだろうから、何かしら回答を残してほしかったエピソードである。

382 外へ飛び出すと、ビルの北側はもう一杯人だかりがしていました。土曜日でしたが、それだけに、この界隈は昼間は人出が多いのです。それを掻きわけるようにして、僕は深紅のウェディング・ドレスで崩折れている彼女を見ました。

(中略)

七階から落ちたのですから、ひどい出血だったと思いますが、赤いドレスでしたから、それが分りません。人形のように美しい死に方でした。

土曜日でした
その一 早川松夫の話」にもあるが、富小路公子が死んだのは土曜日だった。
何月だったのかとか、そのへん明確な記述があったらなあと思う。
383 秘書は、社長室に通したのは、僕の後は誰もなかったと言ってますが、僕が帰った後で、彼女からインターフォンで、下のレストランにショコラ・ムースを注文するよう言われてますから、僕の帰った後も彼女が生きていた証拠になります。ショコラ・ムースが届く前に、大事な電話がかかって来たので、秘書がインターフォンで連絡してもアンサーがない。それで、社長室と、更衣室—ええ、ベッドのある部屋は更衣室と呼ばれていました。どこにも彼女の姿が見えないので、不思議に思って、窓が開いているので何気なく下を眺め下して仰天したのですよ。まっ赤な花が落ちたようだったと言ってましたが— 生きていた証拠
その二十五 尾藤輝彦の話」からもわかるように、小島誠が出ていってから、ショコラ・ムースをオーダーして、そして尾藤輝彦に電話してるのだろう。
そして、その直後に窓から落ちて死んだ。
他殺という可能性はないと思う。どうみても富小路公子は自分で窓から落ちたのだ。

ここまでの富小路公子
※富小路公子の誕生日を1936年10月8日で確定し、死亡日を1977年10月8日と仮定しています。

時期 年齢 出来事 備考
1936年10月8日 0歳 檜町にて生まれる。 父は鈴木国次、母は鈴木タネ。
丸井牧子とともに、算盤塾に通っていた。
尾藤家に出入りしていた。
貰いっ子である嘘をついていた。
小学生のとき。
1951年 14歳 鈴木君子の父が死亡。八百政をたたんで尾藤家に移る。 中学三年のとき。
1952年3月 15歳 簿記学校の夜学に現れる。  
1952年春頃 15歳 昼間、沢山の宝石店に働きに出る。
宝石職人のところへ出入りしはじめる。
 
1952年6月 15歳 簿記三級の試験。合格。
早川松夫に送ってもらう。
 
1952年6月-夏? 15歳 尾藤家を出て、中野のアパートに移る。 ルビーの指輪、サファイアの指輪、翡翠入りの髪飾り、角ダイヤの帯止め、エメラルドと真珠の帯止めを得る。
1952年夏 15歳 沢山と関係をもつ。
日本橋の中華料理屋で働きはじめる。
 
1952年秋頃 15歳 渡瀬義雄と出会う。 沢山栄次は簿記学校に現れなくなった。
1952年12月 16歳 中野のアパートを出る。
渡瀬義雄との同棲がはじまる。
簿記二級の試験。合格。
スター・ルビー、真珠のネックレス、ダイヤのペンダントを得る。
1953年4月 16歳 渡瀬義雄との婚姻届を出す。  
1953年春-夏? 16歳 宝石を持ち込む。一部を残して売り、大内三郎に送ってもらい尾藤家へ。 エメラルド、サファイアのうちどちらかを残して売った。
尾藤家に行った理由は宝石返却?
1953年秋 16歳 このころ、長男義彦を妊娠。  
1953年冬 17歳 宝石店を辞める。  
1954年年明け 17歳 中華料理屋を辞める。 渡瀬義雄がアパートから出て行く。
1954年夏 17歳 沢山家を訪れる。
長男義彦を産む。
部屋の名札は「渡瀬公子」(渡瀬義雄)。
部屋は七号室。
1954年秋 17歳 中華料理屋で再び働きはじめる。 本郷のアパートに住む。
林梨江との付き合いがはじまる。
1955年年明け頃 18歳 麻布のアパート(渡瀬義雄のアパート)に戻ってくる。 義彦はすでに鈴木タネが預かっている。
養子縁組。義彦を鈴木タネの養子とした。
1955年春 18歳 このころ、次男義輝を妊娠。  
1955年春-夏? 18歳 麻布のアパートを引払う。  
1955年12月 19歳 次男義輝を産む。  
1957年春頃 20歳 尾藤家に再び出入りし始める。
宝石買取など。
エメラルドと翡翠が返ってこなかった。
1957年
-1959年
21歳
-23歳
簿記一級合格??

※時期的な根拠なし。21歳-23歳の時期の数年間が空白なため。

※もしくは17-18歳の頃に合格してるか

 
1959年 23歳 渡瀬家に乗り込み、狂言で服毒自殺を図る。
手切れ金として五千万円を得る。
渡瀬義雄と協議離婚。
1960年 24歳 日本橋の中華料理屋を購入。
フランス料理屋「モンレーブ」とする。
富本寛一と出会う。
 
1961年 25歳 富本寛一と交際。  
1962年春-秋? 25歳 富本寛一と結婚。 日本橋にビルを建てようと計画。
結婚して一月後には神宮前のアパートに住む。
烏丸瑤子と出会う。
1963年春-夏? 26歳 田園調布の富本家を新築。
日本橋にビルを建てる。
「富小路」の性を使い始める。
1963年秋-冬? 27歳 大内三郎と再会する。
ビル内の宝石店に引き抜く。
宝石屋を辞めて約十年後のこと。
林梨江にも声をかける。
1964年4月3日 27歳 レイディズ・ソサイエティにビジターとして現れる。  
1964年? 28歳頃? 富本寛一と離婚。 富本宮子・寛一親子は神田のアパートへ出る。
1965年 29歳頃? 長男義彦、次男義輝を田園調布に引取る。  
1967年 31歳 レイディズ・ソサイエティに入会。
マルチーズ「光子さま」癲癇のため、北村院長はじめての往診。
申込書に昭和二十一年生まれと記入する。
1970年 34歳 マルチーズ「光子さま」全犬種展で優勝。 以前に単犬種展でも優勝している。
1971年 35歳 この頃から、テレビ出演がはじまる。
すでに「東京レディス・クラブ」を経営している。
戸籍上でも本名は「鈴木公子」となっている。
マルチーズ「光子さま」が死んだと嘘をついた。
小島誠が「東京レディズ・クラブ」でアルバイトをはじめる。
36歳頃? 尾藤家跡地にドリーム・ハイツが建つ。 土地は沢山不動産が買う。
1973年春 36歳 小島誠を「東京レディズ・クラブ」の支配人に抜擢。  
1973年 36歳 「東京レディス・クラブ」で銀座のバアのマダムに挨拶している。  
1973年秋 37歳 小島誠と関係をもつ。  
38歳頃? 丸井牧子を訪問。バラの造花をプレゼント。  
1977年10月 40歳 早川松夫と再会する。
宝石職人にロイヤルゼリーを届けに行く。
 
1977年10月7日
(金曜日)
40歳 早川松夫と電話。食事の約束をする。  
1977年10月8日
(土曜日)
41歳 小島誠にドレスを見せている。
ショコラ・ムースを注文。

死亡。

二時以前の出来事。
夕刊に「虚飾の女王、謎の死」。
昼なのに赤いイヴニング・ドレスを着ていた。
十日後にはハワイで挙式の予定だった。