その二十 銀座のバアのマダムの話

ポイントとなる証言

ページ(文庫) 証言 解説
302 まあそういうわけで、二百万のサウナ風呂って、出かけて行ったの。

(中略)
「ございます。ビジターとして、一回につき三万円お支払い頂ければ、入会金は必要なしで、ご存分にお過ごし頂けます」
「あ、そう。じゃ、三万円払うわね」
私、うわの空になってた。だって受付の男の子が、アラン・ドロンそっくりの美男子でさあ、映画もテレビも、どうしてこういう子をほっとくかと思うようなハンサムだったんだもの。タキシードなんか着ちゃって、お行儀もいいのよ。

二百万
今で言えば2000万か。
かなりのものだ。あるところには、あるのだ。

アラン・ドロンそっくりの美男子
その二十三 小島誠の話」の小島誠のことか。
アラン・ドロンの映画ってあまり観たことがないが(全然ないか?)、若いときはすごかったって話ですよね。
日本人なのに、アラン・ドロンに似てるってどういうことだ。

310 結構な奥さん方も、沢山来ているみたいだった。これなら儲かるだろうと思ったわよ。二百万の入会金を七十人からとったって、一億四千万でしょ。会員は百七十人いるって話だったわよ、その当時で。 会員は百七十人いるって話
これが本当なら、3億4千万円であり、今で言えば34億円ということだ。
ほほお。かなりのものだ。

そんな、ばしっと成功したようなビジネスをやっておきながら宝石を騙し取っていた富小路公子って。
やはり、宝石に魅入られていたのだろうかね。良くも悪くも金を貯える能力はあったわけだ。そのうえで、宝石に関してはかなりの執着をもっていた。そういう描写か。

312 「まあ、あなたが社長さん?まさかね」
「いえ、私が社長でございます」
「だって、あなた、このビル全部の持主でしょう?」
「はい」
「ちょっと若すぎるから面喰っちゃったのよ。失礼だけど、お幾つ?」
「昭和二十一年生れでございます」
「え?あなた、戦後生れなの?まあ」
驚いたわよ。五年ばかり前なんだから、二十代の若さじゃないのよ。まるきりお嬢さんみたいでさ、きびきびしていて。
五年ばかり前なんだから、二十代の若さ
この証言の取材時期を、1978年としている。五年前といえば、1973年。このとき富小路公子は37歳である。
それを、サバを読んで27歳と思わせたということか。
314 彼女が死んでから、いろいろ書かれて、本当は昭和十一年生れだってことや、田園調布の豪邸が二重三重の抵当に入っていたことや、借り倒された銀行が、慌ててあのビルを差押えようとしたことも知ったけど、それがどうして悪女なのさ。

(中略)

私が買ったダイヤモンドは、無傷で、色はフェア・ホワイト、カットも極上でね、十四カラットあるのよ。店には決して、はめて出ませんけどね。ついこの間もミキモトで見てもらったけど、
「これを富小路さんから?見事なダイヤモンドでございますね」
って言われたわよ。
「こちらで拡大写真お撮りいたしましょうか。これだけ大きくて傷がないのは本当にお珍しゅうございますから」
って言われたけど、宝石の鑑定なんて、してもらったって何の役にも立つものじゃないぐらい知ってるから、いらないって言っといたわ。

田園調布の豪邸が二重三重の抵当に入っていた
まあ銀行から借り入れる手段として、普通のやり方だと思うが、疑問なのは、富小路公子にキャッシュフローはなかったのか?ということ。
サウナ経営で3億以上の収入を得ていながら、また宝石による利潤をかすめていながら・・・と思ってしまうのだが。
サウナ経営で170人も集まっていなかったのか。
はたまた飛躍させて、利益を投資するという意識がまったくなかったとか。

宝石の鑑定なんて
この、銀座のバアのマダムというのは、人がいいんだと思うんだが、「知らぬが仏」というのを表現してるんだろう。

本人がいいと思ってるんだからいいじゃない、本物にこだわるのは、価値がわからない低い意識の話だ、とかそういうことを示したいのだと思うが・・・

でもねえ。騙した人間がいて、騙された人間がいるわけだしねえ。・・・

関係ないが、銀座のバアのマダムが篠原涼子だったら、どうだろう。うーん穏やかではいられないな。

ここまでの富小路公子
※富小路公子の誕生日を1936年10月8日で確定し、死亡日を1977年10月8日と仮定しています。

時期 年齢 出来事 備考
丸井牧子とともに、算盤塾に通っていた。
尾藤家に出入りしていた。
貰いっ子である嘘をついていた。
小学生のとき。
1951年 14歳 鈴木君子の父が死亡。八百政をたたんで尾藤家に移る。 中学三年のとき。
1952年3月 15歳 簿記学校の夜学に現れる。  
1952年春頃 15歳 昼間、沢山の宝石店に働きに出る。
宝石職人のところへ出入りしはじめる。
 
1952年6月 15歳 簿記三級の試験。合格。
早川松夫に送ってもらう。
 
1952年夏 15歳 沢山と関係をもつ。
日本橋の中華料理屋で働きはじめる。
 
1952年秋頃 15歳 渡瀬義雄と出会う。 沢山栄次は簿記学校に現れなくなった。
1952年12月 16歳 渡瀬義雄との同棲がはじまる。
簿記二級の試験。合格。
 
1953年4月 16歳 渡瀬義雄との婚姻届を出す。  
1953年春-夏? 16歳 宝石を持ち込む。一部を残して売り、大内三郎に送ってもらい尾藤家へ。 エメラルド、サファイアのうちどちらかを残して売った。
尾藤家に行った理由は宝石返却?
1953年秋 16歳 このころ、長男義彦を妊娠。  
1953年冬 17歳 宝石店を辞める。  
1954年年明け 17歳 中華料理屋を辞める。 渡瀬義雄がアパートから出て行く。
1954年夏 17歳 沢山家を訪れる。
長男義彦を産む。
部屋の名札は「渡瀬公子」(渡瀬義雄)。
部屋は七号室。
1954年秋 17歳 中華料理屋で再び働きはじめる。 本郷のアパートに住む。
林梨江との付き合いがはじまる。
1955年年明け頃 18歳 麻布のアパート(渡瀬義雄のアパート)に戻ってくる。 義彦はすでに鈴木タネが預かっている。
養子縁組。義彦を鈴木タネの養子とした。
1955年春 18歳 このころ、次男義輝を妊娠。  
1955年春-夏? 18歳 麻布のアパートを引払う。  
1955年12月 19歳 次男義輝を産む。  
1957年春頃 20歳 尾藤家に再び出入りし始める。
宝石買取など。
エメラルドと翡翠が返ってこなかった。
1957年
-1959年
21歳
-23歳
簿記一級合格??

※時期的な根拠なし。21歳-23歳の時期の数年間が空白なため。

※もしくは17-18歳の頃に合格してるか

 
1959年 23歳 渡瀬家に乗り込み、狂言で服毒自殺を図る。
手切れ金として五千万円を得る。
渡瀬義雄と協議離婚。
1960年 24歳 日本橋の中華料理屋を購入。
フランス料理屋「モンレーブ」とする。
富本寛一と出会う。
 
1961年 25歳 富本寛一と交際。  
1962年春-秋? 25歳 富本寛一と結婚。 日本橋にビルを建てようと計画。
結婚して一月後には神宮前のアパートに住む。
烏丸瑤子と出会う。
1963年春-夏? 26歳 田園調布の富本家を新築。
日本橋にビルを建てる。
「富小路」の性を使い始める。
1963年秋-冬? 27歳 大内三郎と再会する。
ビル内の宝石店に引き抜く。
宝石屋を辞めて約十年後のこと。
林梨江にも声をかける。
1964年4月3日 27歳 レイディズ・ソサイエティにビジターとして現れる。  
1964年? 28歳頃? 富本寛一と離婚。 富本宮子・寛一親子は神田のアパートへ出る。
1965年 29歳頃? 長男義彦、次男義輝を田園調布に引取る。  
1967年 31歳 レイディズ・ソサイエティに入会。
マルチーズ「光子さま」癲癇のため、北村院長はじめての往診。
申込書に昭和二十一年生まれと記入する。
1970年 34歳 マルチーズ「光子さま」全犬種展で優勝。 以前に単犬種展でも優勝している。
36歳頃? 尾藤家跡地にドリーム・ハイツが建つ。 土地は沢山不動産が買う。
1973年 37歳 すでに女性のためのクラブを経営している。  
38歳頃? 丸井牧子を訪問。バラの造花をプレゼント。  
1977年10月 40歳 早川松夫と再会する。
宝石職人にロイヤルゼリーを届けに行く。
 
1977年10月7日
(金曜日)
40歳 早川松夫と電話。食事の約束をする。  
1977年10月8日
(土曜日)
41歳 死亡。 二時以前の出来事。
夕刊に「虚飾の女王、謎の死」。
昼なのにイヴニング・ドレスを着ていた。