その十三 菅原ふみの話

ポイントとなる証言

ページ(文庫) 証言 解説
187 私が若奥さまに最初にお目にかかったのは、日本橋のレストラン「モンレーブ」でウェイトレスの教育が出来る人を探してらっしゃる方があると人伝てに聞いたものですから、

(中略)

田園調布に主人が家を新築してますの。私は仕事を持っていて家庭の主婦というわけにはいきませんから、私の家の方で働いて頂きましょう。その方が、あなたにはふさわしいわ」
(中略)
物静かな口調?いいえ、どうしてそんなことをお尋ねになりますの。若奥さまの声は、ぴりっとしていて、威厳に充ち満ちていらっしゃいました。いつも。でなくて、あのお若さで人を率いていけるわけがございません。

日本橋のレストラン「モンレーブ」
その十四 富本寛一の話」でも出てくるが、中華料理をフランス料理に切り換えて大当たりしたとある。この「モンレーブ」という名前は、フランス料理に切り換えてからか。
ちなみに「モンレーブ」とは「mon reve」であり、フランス語で「私の夢」と訳せる。

威厳に充ち満ちて
このエピソードから初出の「口調」。
いつも「まああ」が口癖で品のある艶っぽい話し方とは対象に、指導者としてはぴりっとしていた・・・まあこのページの意図とはあまり関係ないが。

192 富小路という御苗字は、日本橋のあのビルディングが落成したとき、七階に置かれた若奥さまの事務所で初めてお使いになったものですが、いかにも若奥さまらしい愛情の表現だと思ったものでございます。富本公子がもし有名になって、旦那さまが富本公子の夫と呼ばれるようなことにならないように、というお気づかいもあったのでしょう。いわばペンネームのようなものだと思います。あくまで富本という名を立てて、富小路としたのは、可愛らしい思いつきじゃございません?それなのに、
「おい、公子、あれは変だよ。いかにも偽ものの華族みたいで、みっともないよ。第一、京都にあった小路じゃないか」
「そうよ、新婚旅行のとき、あそこの天ぷら屋さん、おいしかったじゃないの。思い出の小路よ、富小路は」
「ああ、あの天ぷら屋は富小路にあったのか」
富小路
日本橋にビルを建てた時期がはっきりしないが、おそらく1963年頃だろうか。
この頃から富小路という名前を使い出したということだ。
それまでは、おそらく「鈴木公子」としていたのだろう。
196 間もなく工事夫が来て、お化粧室にあった電話が、寝室の枕もとに取りつけ直されました。お電話の声が階下に漏れてくることは、それからは決してございませんでした。あんな大きなお声でしたのに、不思議なくらいでございました。 お電話の声が階下に漏れて
その十四 富本寛一の話」にも出てくるが、性生活のため、寝室をしっかり防音していたから、なのだが、こういうところ、ちゃんと伏線はってるなあと感心する。
196 「菅原さん、びっくりしないでね。私には二人の子供がいるの。何が嬉しいといって、晴れてわが子と同じ家で暮せるのよ。三年ぶりなのよ。離婚のこと、私が平気だって言ってたのは、痩せ我慢じゃなかったわ。何がつらかったといって、子供と別れて寛一さんと暮しているほどの心の痛むことはなかったわ。明日から、この家で私の人生が新出発をするのよ。びっくりした?」
「はい、驚くなと仰言ったって無理というものでございますわ。いつお産みになっていらしたのでしょう」
「富本とは、再婚だったの。私は十七で長男を産んで、十八で次男を産んでいたの」
「そんなお躰には見えませんでしたわ」
「あんまり若すぎたからでしょう。上の子供は五年生なのよ。下の子は四年生。この林で、力いっぱい遊ばせてやりたいと、どんなに心の底で願っていたかわからないわ」
十七で長男を産んで、十八で次男を産んで
うーんどう考えても、次男を産んだのは、12月なので19歳になっているんですが・・・二ヶ月早く産んだってことすか。
いーや、やっぱりこのまま進める。
連続して生んでるのに、ここで「十九で次男を産んで」と話すと読者にわかりにくいから、という配慮だと思うことにする。

長男義彦が小学五年生なので、1965年か。

ここまでの富小路公子
※富小路公子の誕生日を1936年10月8日で確定し、死亡日を1977年10月8日と仮定しています。

時期 年齢 出来事 備考
丸井牧子とともに、算盤塾に通っていた。
尾藤家に出入りしていた。
貰いっ子である嘘をついていた。
小学生のとき。
1951年 14歳 鈴木君子の父が死亡。八百政をたたんで尾藤家に移る。 中学三年のとき。
1952年3月 15歳 簿記学校の夜学に現れる。  
1952年春頃 15歳 昼間、沢山の宝石店に働きに出る。  
1952年6月 15歳 簿記三級の試験。合格。
早川松夫に送ってもらう。
 
1952年夏 15歳 沢山と関係をもつ。
日本橋の中華料理屋で働きはじめる。
 
1952年秋頃 15歳 渡瀬義雄と出会う。 沢山栄次は簿記学校に現れなくなった。
1952年12月 16歳 渡瀬義雄との同棲がはじまる。
簿記二級の試験。合格。
 
1953年4月 16歳 渡瀬義雄との婚姻届を出す。  
1953年春-夏? 16歳 宝石を持ち込む。一部を残して売り、大内三郎に送ってもらい尾藤家へ。 エメラルド、サファイアのうちどちらかを残して売った。
尾藤家に行った理由は宝石返却?
1953年秋 16歳 このころ、長男義彦を妊娠。  
1953年冬 17歳 宝石店を辞める。  
1954年年明け 17歳 中華料理屋を辞める。 渡瀬義雄がアパートから出て行く。
1954年夏 17歳 沢山家を訪れる。
長男義彦を産む。
部屋の名札は「渡瀬公子」(渡瀬義雄)。
部屋は七号室。
1954年秋 17歳 中華料理屋で再び働きはじめる。 本郷のアパートに住む。
林梨江との付き合いがはじまる。
1955年年明け頃 18歳 麻布のアパート(渡瀬義雄のアパート)に戻ってくる。 義彦はすでに鈴木タネが預かっている。
養子縁組。義彦を鈴木タネの養子とした。
1955年春 18歳 このころ、次男義輝を妊娠。  
1955年春-夏? 18歳 麻布のアパートを引払う。  
1955年12月 19歳 次男義輝を産む。  
1957年春頃 20歳 尾藤家に再び出入りし始める。
宝石買取など。
エメラルドと翡翠が返ってこなかった。
1959年 23歳 渡瀬家に乗り込み、狂言で服毒自殺を図る。
手切れ金として五千万円を得る。
渡瀬義雄と協議離婚。
1960年 24歳 日本橋の中華料理屋を購入。
フランス料理屋「モンレーブ」とする。
 
1962年春-秋? 25歳 富本寛一と結婚。 日本橋にビルを建てようと計画。
結婚して一月後には神宮前のアパートに住む。
1963年春-夏? 26歳 田園調布の富本家を新築。
日本橋にビルを建てる。
「富小路」の性を使い始める。
1963年秋-冬? 27歳 大内三郎と再会する。
ビル内の宝石店に引き抜く。
宝石屋を辞めて約十年後のこと。
林梨江にも声をかける。
1964年? 28歳頃? 富本寛一と離婚。 富本宮子・寛一親子は神田のアパートへ出る。
1965年 29歳頃? 長男義彦、次男義輝を田園調布に引取る。  
36歳頃? 尾藤家跡地にドリーム・ハイツが建つ。 土地は沢山不動産が買う。
38歳頃? 丸井牧子を訪問。バラの造花をプレゼント。  
1977年10月 40歳 早川松夫と再会する。  
1977年10月7日
(金曜日)
40歳 早川松夫と電話。食事の約束をする。  
1977年10月8日
(土曜日)
41歳 死亡。 二時以前の出来事。
夕刊に「虚飾の女王、謎の死」。
昼なのにイヴニング・ドレスを着ていた。