その十二 富本宮子の話

ポイントとなる証言

ページ(文庫) 証言 解説
176 帝国ホテルで結婚披露をするのが夢だったんだって。費用は僕らでやれるようにする」
(中略)
驚きましたのは、伊藤先生が、公子さんの学歴を青山学院短大卒と仰言ったことでございました。青山学院に夜学があったのか、不思議でした。それなら決して恥しがることもないのに、どうして私には夜学へ行っていた、昼間は働いていた、と公子さんは言ったのでしょう。結婚式場に、公子さんのお友だちが一人も姿を見せなかったのはなぜでしょう。私は、誰かにすがりついて大声で叫び度うございました。
「私、何も存じませんのよ」
って。
帝国ホテル
IMPERIAL HOTEL
大日本帝国憲法発布の翌年、1890年(明治23年)に開業。

そういえば「その十五 烏丸瑤子の話」でも帝国ホテルが出てきたような・・・

179 一週間もたたないうちに、寛一が、二人だけでアパートで暮したいと言い出したときは、目の前がまっ暗になりました。
「どうして?私の何がいけないの?公子さんがそう言い出したの?」
「いや、僕の意思です。そうじゃないと、僕が参ってしまいそうなのだ。ママ、僕のわがままだと思って許して下さい」
何がなんだか分らないうちに、本郷のアパートに引越してしまったんです。

本郷のアパート
さあこいつだ。
その十四 富本寛一の話」によれば、ここで引越した先は、神宮前ということだ。
また、本郷のアパートというのは、「その十 林梨江の話」にも出てくるが、あれは明らかに富本寛一との結婚の前なので、どこかが間違っているとしか思えない。

つまり、林梨江の話すアパートは本郷ではなく麻布であったか、もしくは富本宮子の話すアパートは本郷ではなく神宮前だったか。

これはさすがに作者のミスではないかと思うのだが・・・
ここでは、富本宮子のいう「本郷」が、神宮前の間違いだったと仮定して進めることにしよう。

180 それから半年ほどしたでしょうか、

(中略)
「お母さま、隣の地所は借金を質に置いても買えと言いますでしょ。私、八所借りして算段いたしますから、お隣にお話しして頂けません?周旋屋の手数料も省けますでしょう?お付きあいはありませんの?」
(中略)
「お母さま、買いましょうよ、チャンスですわよ、きっと。今は土地を買うといえば、銀行は安心して融資してくれますから、日本橋のお店も拡げますので、一どきにやってしまいます。担保物件はありますし、税理士も居りますから、お母さまは安心していらして下さいね」

八所借り
「やところがり」って何だ?
調べてみたが、わからず。
あるページによると、八は八百万と一緒で「たくさん」という意味、八所は「どこにでもいる」という意味らしいが・・・
「どこにでもいる」「借りる」って何だろう。

誰か知ってる人、教えてください。

結婚して半年ほど経ったころ、日本橋の中華料理屋をビルにするのも進行していたことがわかる。

184 何があったのか、さっぱり分りませんでした。離婚を言い出したのは寛一の方でした。公子さんが同意しないものですから家裁では埒があかず、結局、寛一は富本家の土地五百坪を慰謝料代りに公子さんに渡して、私と寛一の二人きりで、神田のアパートに移りました。
そうなってから、伊藤先生に、公子さんの過去のことを詳しく伺いまして肝を潰しましたのです、私。
その十四 富本寛一の話」でわかるが、結婚してた時期はかなり短い。

ここまでの富小路公子
※富小路公子の誕生日を1936年10月8日で確定し、死亡日を1977年10月8日と仮定しています。

時期 年齢 出来事 備考
丸井牧子とともに、算盤塾に通っていた。
尾藤家に出入りしていた。
貰いっ子である嘘をついていた。
小学生のとき。
1951年 14歳 鈴木君子の父が死亡。八百政をたたんで尾藤家に移る。 中学三年のとき。
1952年3月 15歳 簿記学校の夜学に現れる。  
1952年春頃 15歳 昼間、沢山の宝石店に働きに出る。  
1952年6月 15歳 簿記三級の試験。合格。
早川松夫に送ってもらう。
 
1952年夏 15歳 沢山と関係をもつ。
日本橋の中華料理屋で働きはじめる。
 
1952年秋頃 15歳 渡瀬義雄と出会う。 沢山栄次は簿記学校に現れなくなった。
1952年12月 16歳 渡瀬義雄との同棲がはじまる。
簿記二級の試験。合格。
 
1953年4月 16歳 渡瀬義雄との婚姻届を出す。  
1953年春-夏? 16歳 宝石を持ち込む。一部を残して売り、大内三郎に送ってもらい尾藤家へ。 エメラルド、サファイアのうちどちらかを残して売った。
尾藤家に行った理由は宝石返却?
1953年秋 16歳 このころ、長男義彦を妊娠。  
1953年冬 17歳 宝石店を辞める。  
1954年年明け 17歳 中華料理屋を辞める。 渡瀬義雄がアパートから出て行く。
1954年夏 17歳 沢山家を訪れる。
長男義彦を産む。
部屋の名札は「渡瀬公子」(渡瀬義雄)。
部屋は七号室。
1954年秋 17歳 中華料理屋で再び働きはじめる。 本郷のアパートに住む。
林梨江との付き合いがはじまる。
1955年年明け頃 18歳 麻布のアパート(渡瀬義雄のアパート)に戻ってくる。 義彦はすでに鈴木タネが預かっている。
養子縁組。義彦を鈴木タネの養子とした。
1955年春 18歳 このころ、次男義輝を妊娠。  
1955年春-夏? 18歳 麻布のアパートを引払う。  
1955年12月 19歳 次男義輝を産む。  
1957年春頃 20歳 尾藤家に再び出入りし始める。
宝石買取など。
エメラルドと翡翠が返ってこなかった。
1959年 23歳 渡瀬家に乗り込み、狂言で服毒自殺を図る。
手切れ金として五千万円を得る。
渡瀬義雄と協議離婚。
1960年 24歳 日本橋の中華料理屋を購入。  
1962年春-秋? 25歳 富本寛一と結婚。 日本橋にビルを建てようと計画。
結婚して一月後には神宮前のアパートに住む。
1963年春-夏? 26歳 田園調布の富本家を新築。
日本橋にビルを建てる。
 
1963年秋-冬? 27歳 大内三郎と再会する。
ビル内の宝石店に引き抜く。
宝石屋を辞めて約十年後のこと。
林梨江にも声をかける。
1964年? 27歳頃? 富本寛一と離婚。 富本宮子・寛一親子は神田のアパートへ出る。
36歳頃? 尾藤家跡地にドリーム・ハイツが建つ。 土地は沢山不動産が買う。
38歳頃? 丸井牧子を訪問。バラの造花をプレゼント。  
1977年10月 40歳 早川松夫と再会する。  
1977年10月7日
(金曜日)
40歳 早川松夫と電話。食事の約束をする。  
1977年10月8日
(土曜日)
41歳 死亡。 二時以前の出来事。
夕刊に「虚飾の女王、謎の死」。
昼なのにイヴニング・ドレスを着ていた。