その十一 伊藤弁護士の話

ポイントとなる証言

ページ(文庫) 証言 解説
157 しかし、親も、兄弟もないといっても、小学校や女学校の恩師がいるだろう。女友立ちだって呼べばいいじゃないか。結婚式に、新婦側から一人も出席者がいないというのは前代未聞ではないですか。

(中略)

色は、白でしたかな。いや、とにかく本物のバラを着て歩いてきたんですよ。いや、造花じゃないでしょう。強烈な花の香りで、しばらく頭がぼんやりしたのを覚えていますからな。
厳粛な歌ミサの中で、カトリックの牧師、はあ、カトリックは神父といいますか、なるほど。その神父が、結婚の誓の言葉を、男から先に誓わせる。次に同じことを、花嫁に誓わせる。
花嫁が、
「誓います」
といったのが、異様でした。声が震えていたんです

新婦側から一人も出席者がいない
おそらく母親の鈴木タネも知らない事実なんでしょうなあ。このとき、長男義彦は8歳。次男義輝は7歳ですか。

いや、造花じゃないでしょう
その十 林梨江の話」にて、造花であることがわかっている。この、造花のエピソードで作者が言いたかったことは何だろうか。
たぶん、普通の人は本物と偽物の見分けがつかないってことを言いたいのだろうと思う。
で、富小路公子だけは、直感で本物がわかり、本物しかいらない。偽物は他の人でいい、という行動をしていた。・・・そんな感じだろうか。

声が震えていたんです
なぜ震えていたのか?これに対する答もはっきりとは見つからない。
富本寛一との結婚が本当に嬉しかったのか(このとき、尾藤輝彦と沢山栄次とは愛人関係にあったが)。

160 私は、媒酌人として挨拶するに当って、花嫁の学歴は青山学院短大卒と言った。年齢は二十三歳と言った。寛一君がくれた草稿にそう書いてあったからですよ。 青山学院短大卒
そういえば、「その三 浅井雪子の話」で出ていたが、浅井雪子は青山学院だな・・・それに影響されたんだろうか。はたまた伏線になればと適当につなげたとか・・・
161 家は田園調布に敷地五百坪の立派のものがある。庭が広すぎるから一部売って離れを建てようかと思うと宮子さんが相談に見えたのは、結婚して一月たらずだった。
なんと若い二人はアパート暮しで、宮子さんは一人ぼっちで暮しているというではないか。僕は寛一君を呼んで叱りつけてやった。この親不孝者めが、僕の生きている間は、アプレ・ラ・ゲールの真似はさせないぞ。姑と同居を嫌がる嫁など、放り出せと、強いことを言った。
寛一君は当惑しとったな。
アプレ・ラ・ゲール
アプレ・ゲールとも。
フランス語で「戦後」のこと。昭和二十年代に使われた言葉。戦後世代のことを指す。
どちらかと言えば悪い意味だろうか。既成概念にとらわれず好き勝手にやるかんね、という奴のことをこう言ったらしい。
162 それから一年後でしたかな。新築披露をしたいから、家に飯を喰いに来てくれという案内があった。戦後、間もなく富本君は亡くなったので、あの家の財政が昔のようではないぐらいの見当はついている。寛一君は商社マンになって、まだ三年で、独力で家を建てられるわけがない。敷地がひろいから、半分も売れば離れなど必要もない。五十坪ぐらいの文化住宅が建ったのだろう。そう想像して出かけて行った。
しかし、魂消たね、西洋式の門柱に英語でTOMIMOTOと横書きでね、車寄せがあって、ホワイトハウスそっくりの巨大な建築が聳え立っているじゃないか。
一年後
結婚して一月後には、すでにアパート暮らしをしていた。
そのさらに一年後に、ホワイトハウスそっくりの巨大な建物が建ったという。
富小路公子27歳のころ。日本橋にもビルを建てた。
163 三千坪だそうでございます」
「買ったですか」
「はい、嫁が」
「失礼ですが、公子さんは何をして働いているんです?」
「日本橋で、レストランを経営しておりまして、近々そちらの方も改築するそうでございます。固定資産税なんかにも詳しくて、計算も数字をあげて、銀行から、これだけ借りて、私の貯金もございますから、お母さま御心配なくと申します。宝石屋も致しておりますらしゅうございます」
三千坪
6600平方メートルか。66メートルかける100メートルの長方形の土地。結構大きいな。

それにしても、富小路公子は簿記一級をとっていたんだろうか?
とるとすれば、チャンスは長男義彦の出産前後か、次男義輝の出産前後だろうが・・・

166 「そんなことは君、戸籍謄本を取寄せれば分ることだろう。婚姻届のときに、彼女の戸籍謄本を見ていないのか」
「見ています。子供など、記入されてありません。僕は、処女と結婚したつもりでした。齢も僕より三つ下だと思いこんでいたのですが、届けを出すとき、僕と同じ昭和十一年生れだということが分ったんです」
「そう、披露のとき、僕は君の草稿通り、公子さんは二十三歳と言った。すると、あのとき二十六だったのか、彼女は」
「二十五でした。正確には。誕生日が、式のあとでしたから
「それで、君は何に悩んでいるのだ」
「友だちに弁護士がいます。相談としてでなく、僕の知り合いにこういう不思議な女と結婚したのがいるんだと話したら、ああ、本籍を変えれば、前の結婚や離婚歴は消せるんだ。よくある話だよ、と言われました。その先は調べられるのかと訊いたら、ああ、調べる気になればね、子供の住所姓名が分ればすぐ調べがつくと。それから先、僕には勇気がないんです」
誕生日が、式のあとでしたから
結婚の時期が具体的になった。
1962年10月に富小路公子は26歳になるので、その前だということだ。

それにしても、婚姻届を出すときに、三年サバを読んでいたことがわかったとは・・・
よくそんなんで結婚するなあ。

167 彼女は孤児だといったが、母親が生きていて、その戸籍に、彼女の産んだ子供が二人、養子として入籍されていた。父親は渡瀬義雄。母親は鈴木君子。結婚から六年後に、協議離婚している。渡瀬という家にも調査員をやって離婚の原因を訊いたら、無断で入籍していて、婚姻無効の訴えを起したが、彼女が頑として応じないので、ともかく協議離婚したあと、父子関係不存在の訴えを起したが、何年たっても彼女が譲らないし、婚姻届の筆跡鑑定も何年もかかり、それも百パーセントの資料にならないので、渡瀬家の方ではもう諦めているというのだな。なんでも相手の父親の目の前で首を縊ろうとしたのだそうだよ。服毒自殺?いや、目の前で首をくくりかけたそうで、ま、狂言自殺だろうが、危ないところだった。離婚するのに、とんでもなく金をむしりとったということも分った。五億とかいう話だったよ、君。 養子として入籍されていた
この事実を、母親の鈴木タネは知らないのだろう。

首を縊ろうとしたのだそうだよ
五億という金額といい、伝聞で事実が狂っている例。
これも、造花のエピソードに結びつくのでは。その人の先入観で事実がいい加減になるんだということを示したかったのか。

ここまでの富小路公子
※富小路公子の誕生日を1936年10月8日で確定し、死亡日を1977年10月8日と仮定しています。

時期 年齢 出来事 備考
丸井牧子とともに、算盤塾に通っていた。
尾藤家に出入りしていた。
貰いっ子である嘘をついていた。
小学生のとき。
1951年 14歳 鈴木君子の父が死亡。八百政をたたんで尾藤家に移る。 中学三年のとき。
1952年3月 15歳 簿記学校の夜学に現れる。  
1952年春頃 15歳 昼間、沢山の宝石店に働きに出る。  
1952年6月 15歳 簿記三級の試験。合格。
早川松夫に送ってもらう。
 
1952年夏 15歳 沢山と関係をもつ。
日本橋の中華料理屋で働きはじめる。
 
1952年秋頃 15歳 渡瀬義雄と出会う。 沢山栄次は簿記学校に現れなくなった。
1952年12月 16歳 渡瀬義雄との同棲がはじまる。
簿記二級の試験。合格。
 
1953年4月 16歳 渡瀬義雄との婚姻届を出す。  
1953年春-夏? 16歳 宝石を持ち込む。一部を残して売り、大内三郎に送ってもらい尾藤家へ。 エメラルド、サファイアのうちどちらかを残して売った。
尾藤家に行った理由は宝石返却?
1953年秋 16歳 このころ、長男義彦を妊娠。  
1953年冬 17歳 宝石店を辞める。  
1954年年明け 17歳 中華料理屋を辞める。 渡瀬義雄がアパートから出て行く。
1954年夏 17歳 沢山家を訪れる。
長男義彦を産む。
部屋の名札は「渡瀬公子」(渡瀬義雄)。
部屋は七号室。
1954年秋 17歳 中華料理屋で再び働きはじめる。 本郷のアパートに住む。
林梨江との付き合いがはじまる。
1955年年明け頃 18歳 麻布のアパート(渡瀬義雄のアパート)に戻ってくる。 義彦はすでに鈴木タネが預かっている。
養子縁組。義彦を鈴木タネの養子とした。
1955年春 18歳 このころ、次男義輝を妊娠。  
1955年春-夏? 18歳 麻布のアパートを引払う。  
1955年12月 19歳 次男義輝を産む。  
1957年春頃 20歳 尾藤家に再び出入りし始める。
宝石買取など。
エメラルドと翡翠が返ってこなかった。
1959年 23歳 渡瀬家に乗り込み、狂言で服毒自殺を図る。
手切れ金として五千万円を得る。
渡瀬義雄と協議離婚。
1960年 24歳 日本橋の中華料理屋を購入。  
1962年春-秋? 25歳 富本寛一と結婚。 日本橋にビルを建てようと計画。
結婚して一月後にはアパートに住む。
1963年? 27歳頃? 田園調布の富本家を新築。
大内三郎と再会する。
ビル内の宝石店に引き抜く。
宝石屋を辞めて約十年後のこと。
林梨江にも声をかける。
36歳頃? 尾藤家跡地にドリーム・ハイツが建つ。 土地は沢山不動産が買う。
38歳頃? 丸井牧子を訪問。バラの造花をプレゼント。  
1977年10月 40歳 早川松夫と再会する。  
1977年10月7日
(金曜日)
40歳 早川松夫と電話。食事の約束をする。  
1977年10月8日
(土曜日)
41歳 死亡。 二時以前の出来事。
夕刊に「虚飾の女王、謎の死」。
昼なのにイヴニング・ドレスを着ていた。