その十 林梨江の話

ポイントとなる証言

ページ(文庫) 証言 解説
137 その薄紫のドレスを御注文頂いたのが、そもそものお付き合いの初めでございます。

(中略)
「やっぱり子供を一人産むと寸法が変るのねえ」
と仰言るので私びっくり致しました。
「まあ、御結婚なすっていらっしゃいますの。お嬢さまだとばかり思ってましたわ。でも高校生でいらっしゃるのじゃありません?」
「高校も大学も行きたかったんですけれど、強引に結婚させられちゃったのよ」

子供を一人産むと
時期としては、1954年から1955年になろうとしている頃?
138 お名前と御住所を伺いましたら、文京区の本郷にあるアパートでしたので、少し面喰らいましたが新婚生活を気楽に送ってらっしゃるのかしらと思いました。 文京区の本郷にあるアパート
これは・・・?
鈴木君子は尾藤家に引取られて(乃木坂)、そこを出て中野に越した(「その二十一 鈴木タネの話」)。
その後、すぐにそこを出て渡瀬義雄と同棲した(麻布のアパート)。

本郷?

長男義彦を出産後、麻布のアパートに戻ってくるまでの間、そこにいたのだろうか・・・?

139 妊婦ドレスの御注文は、それこそ一年たたないうちにございました。
(中略)
「前に大きな病院に入って懲りたことがありましたから、今度は家の近くの小さいけど家庭的な産婦人科でと思ってますの」
「御予定は、いつでらっしゃいますの」
「十二月の上旬よ。私、年子を産むことになっちゃいましたの」
それこそ一年たたないうちに
1955年春-夏ころか。
麻布のアパートを引払っているころ。

ここで具体的な記述が出てきたが、次男義輝は予定日は1955年12月であったことがわかる。

140 お勘定は最初から、きちん、きちんと、現金でお支払い下さいました。いつでもよろしゅうございますと申上げましたのですけれど。
「私、借金って大嫌いなの。借りていると思うのが、頭を押さえるようで、一銭でも嫌なのよ」

(中略)

近所のおそば屋さんに山のように借金を残していたとかいう話は、きっと間違いだと思いますわ。だって、私の存じ上げてる公子さまからは考えられませんもの。死人に口なしと思って、悪女だなんて書いたところもありましたが、私、憤慨して眠れないくらいでしたわ。

実際、そば屋の証言とか出てこない。
話している人で、ふみたおされたと言う人はいないのだ。

このへん、どれを真実ととるかは読者にゆだねているともいえるし、もしかしたら伏線を張るだけしといて、ほったらかしにしたともとれる。

144 離婚なさったのは、急にお寸法がお変りになったので、
「何か心配ごとでもおできになったのですか?」
って、思わず伺ってしまったのです。
それまでは、たとえばバストの寸法などは出産前と、出産後では、どうしても変って、お一人でもお産みになれば体型は崩れるものなんですのに、公子さまはずっと豊かで、形のいい理想的な寸法でいらしたのです。だものですから、うっかり立入ったことを訊いてしまったのですわ。
「やっぱり分るのねえ」
「いえ、急にお痩せになりましたから」
離婚したのよ
私は耳を疑いました。そんなことが、こんな方に限って、あるものではないと思ってましたもの。
細くなって手首をじっと眺めながら、
「まああ。痩せているわ、確かに。女にとって離婚というのは一大事だったのねえ」
御自分に言いきかせるように、囁くように仰言るのです。
離婚したのよ
渡瀬義雄との離婚のことだろうが、次男義輝を出産してあとのことだろう。
渡瀬家に乗り込み、狂言自殺をはかったあとと考えるのが無難だが・・・

離婚の悩みで痩せたわけではないだろう。

145 はい、再婚のときのウェディング・ドレスは、私がお作り致しました。
(中略)
離婚なさってから、三年たっていたように思います。
「ねえ、少女趣味かしら、私、小さな白いバラの花をリボンで綴じつけたみたいにして、全身にあしらってみたいの」
「造花でございますね」
「本もので出来たら一番いいんだけど」
「でも本ものの白バラは傷がつきやすくて、それが目立ちますし、却って穢らしく見える心配がございます。造花の方が、本ものに見えると思いますよ」
「まああ。面白いわね、造花の方が本ものに見えるなんて」
離婚なさってから、三年たっていた
いよいよ物語が中盤に入り、次の「その十一 伊藤弁護士の話」から始まる、富本寛一との再婚のエピソードへ。

三年経っていたということは、1962年、26歳のころだろうか?

造花の方が本ものに見える
唯一、造花について発展的なエピソード。
富小路公子本人は、あくまで本物が好きだが、まわりの人には造花が本物に見える・・・というニュアンスを示しているのではないだろうか。

146 私はドレスばかり見ていたのですけれど、でも再婚相手の富本さんて方も見ましたよ。
肩幅の広いがっしりしたタイプで、美男ではありませんでしたが、逞しさが漲っていて、私はお目にかかったことがなかったけれど、前の御主人さまとは真反対のタイプをお選びになったのだという気がしました。
その頃には、公子さまが日本橋に大きなビルをお建てになろうとしてらしたことを知ってましたから、お若いのに、女一人でどうしてそんな大事業が出来るのかと思っていたのですけれど、富本さんは実業家として、いいパートナーだったのじゃありませんかしら。
日本橋に大きなビルをお建てになろうとしてらした
青山で式を挙げたころに、ビルを建てようとしていた・・・ということは、富小路公子が26歳-27歳のころ、ということになる。
148 「ねえ先生、私のビルの中にお店出さない?主人が焼餅やくから、女の方ばっかりにしてしまおうかと思ってるのよ、経営者は。若いお嬢さんたちが、日本橋のオフィス街からぞろぞろ出てくるのは壮観よ。若い人向きの既製服専門店になさったら、どうかしら。お家賃は、いらないわ」 この時期、「その七 大内三郎の話」でも同様に、ビルに入る店子に誘っている。

ここまでの富小路公子
※富小路公子の誕生日を1936年10月8日で確定し、死亡日を1977年10月8日と仮定しています。

時期 年齢 出来事 備考
丸井牧子とともに、算盤塾に通っていた。
尾藤家に出入りしていた。
貰いっ子である嘘をついていた。
小学生のとき。
1951年 14歳 鈴木君子の父が死亡。八百政をたたんで尾藤家に移る。 中学三年のとき。
1952年3月 15歳 簿記学校の夜学に現れる。  
1952年春頃 15歳 昼間、沢山の宝石店に働きに出る。  
1952年6月 15歳 簿記三級の試験。合格。
早川松夫に送ってもらう。
 
1952年夏 15歳 沢山と関係をもつ。
日本橋の中華料理屋で働きはじめる。
 
1952年秋頃 15歳 渡瀬義雄と出会う。 沢山栄次は簿記学校に現れなくなった。
1952年12月 16歳 渡瀬義雄との同棲がはじまる。
簿記二級の試験。合格。
 
1953年4月 16歳 渡瀬義雄との婚姻届を出す。  
1953年春-夏? 16歳 宝石を持ち込む。一部を残して売り、大内三郎に送ってもらい尾藤家へ。 エメラルド、サファイアのうちどちらかを残して売った。
尾藤家に行った理由は宝石返却?
1953年秋 16歳 このころ、長男義彦を妊娠。  
1953年冬 17歳 宝石店を辞める。  
1954年年明け 17歳 中華料理屋を辞める。 渡瀬義雄がアパートから出て行く。
1954年夏 17歳 沢山家を訪れる。
長男義彦を産む。
部屋の名札は「渡瀬公子」(渡瀬義雄)。
部屋は七号室。
1954年秋 17歳 中華料理屋で再び働きはじめる。 本郷のアパートに住む。
林梨江との付き合いがはじまる。
1955年年明け頃 18歳 麻布のアパート(渡瀬義雄のアパート)に戻ってくる。 義彦はすでに鈴木タネが預かっている。
1955年春 18歳 このころ、次男義輝を妊娠。  
1955年春-夏? 18歳 麻布のアパートを引払う。  
1955年12月 19歳 次男義輝を産む。  
1957年春頃 20歳 尾藤家に再び出入りし始める。
宝石買取など。
エメラルドと翡翠が返ってこなかった。
1959年 23歳 渡瀬家に乗り込み、狂言で服毒自殺を図る。
手切れ金として五千万円を得る。
渡瀬義雄と協議離婚。
1960年 24歳 日本橋の中華料理屋を購入。  
1962年? 26歳頃? 富本寛一と結婚。 日本橋にビルを建てようと計画。
1963年? 27歳頃? 大内三郎と再会する。
ビル内の宝石店に引き抜く。
宝石屋を辞めて約十年後のこと。
林梨江にも声をかける。
36歳頃? 尾藤家跡地にドリーム・ハイツが建つ。 土地は沢山不動産が買う。
38歳頃? 丸井牧子を訪問。バラの造花をプレゼント。  
1977年10月 40歳 早川松夫と再会する。  
1977年10月7日
(金曜日)
40歳 早川松夫と電話。食事の約束をする。  
1977年10月8日
(土曜日)
41歳 死亡。 二時以前の出来事。
夕刊に「虚飾の女王、謎の死」。
昼なのにイヴニング・ドレスを着ていた。