その九 沢山栄次の話

ポイントとなる証言

ページ(文庫) 証言 解説
120 彼女を知ったのは、神田にある簿記の学校です。

(中略)

現役の学生なんかはたちまち熱を上げていましたが、私は狙いをつけたら機の熟するのをゆっくり待つ方でしてね。

学生
その一 早川松夫の話」の早川松夫のことですね。
120 「それだったら、僕は新橋に小さな店を出してるんだが、よかったら資格試験に合格するまで、昼間はその店で働かないかい?勉強する時間は充分あるよ」
「どういうお店ですの?」
「宝石店」
「まああ」

(中略)

彼女に新橋の店で働かせることについては自信がありましたな。給料も、普通の三倍がどころの値段を言いましたから、
「考えさせて頂きます。母とも相談いたしまして」

給料も、普通の三倍
この「働かない?」の誘いが、具体的にいつなのかは記載されていない。
中学を出ると働き始めたこと、三級の試験の前だということで、春だったことはわかる。

給料が普通の三倍だったというのは、かなりむちゃくちゃだが、・・・それだけ我が物としたかったんでしょうか。

121 「お父さんは」
「戦死しました」
「いつ?」
しばらく黙って、
「実は、父は、私の小さい頃に亡くなったことになっているんです。母が話したがらないのですけれど、戦前は華族でしたの、父は
戦前は華族でしたの、父は
本当の親は死んだ、華族出身である、の嘘の並べ立てだ。これをあっさり信じる沢山。戦死したのをいつなのか聞く前に、雇うのに年齢も確かめないのはどうかと思う。
122 自分では十七と言ってましたが、十五歳ぐらいにしか見えなくて 十五歳ぐらいにしか見えなくて
十七と詐称していた。このころは大人に見せることが優先していたのか。
122 神田の簿記の学校には、行ったり行かなかったりでしたが、一度みんなで一杯飲みに行こうと出かけたところ、彼女が途中で、
「お先に失礼いたします」
と言い、学生が送って行ったのが印象的でした。

(中略)

新橋の店は客がよく来るところではないから、じっくり勉強が出来たんだと思うんです。番頭からも、随分難しい本を読んでますよと報告を受けてましたしね。

一度みんなで一杯飲みに行こうと
これも「その一 早川松夫の話」に出てくるエピソードですね。
これが1952年6月か。
123 「それじゃ、日本橋のお店で、夜だけレジをやってみるかね」
「まああ」
嬉しそうな顔をしましたね。その夜は、銀座七丁目にある贅沢な店で食事をしたあと、日本橋の店を覗かせて、それからあとはほろ酔いの彼女を連れこむのに苦もありませんでした。サカサクラゲという名で当時は呼ばれていた旅館ですが、彼女は少しも抵抗しませんでした。しかし処女だったのは間違いありません。私も手荒なことは出来ませんでした。
サカサクラゲ
サカサクラゲって何だ。これはつまり、ラブホテルととっていいと思う。
温泉マークがクラゲを逆さにしたように見えることから、温泉のことを指すのだが、この温泉というのは、いかがわしいことをする安い温泉旅館という意味合いになっている。
そういう言葉があったということです。

処女だったのは間違いありません
その二十五 尾藤輝彦の話」でも出てくるが、沢山と尾藤のどちらが鈴木君子の初めての相手だったのかは、はっきりと明示されない。
この、日本橋のレストランで働くことになった時期も不明だしなあ。

127 「あのね、社長さん、おかげさまで、アパートに引越したのよ。今まで間借りで母も肩身が狭かったから、随分ありがたいわ。お礼を申上げます」
二人きりのときでも、こういうことは行儀よくきちんとしていました。男としては、てれますよね。どちらも裸のときなんだから。
「それより大丈夫かい。アルバイトの学生と親密だって噂がたってるよ」
「渡瀬さんのことでしょう?毎晩アパートまで送ってくれるの。夜道が物騒だから助かるわ」
「それだけなんだろうね」
「そうよ。他にどんなことが考えられるの」
「新橋の店では、君は結婚したと言ってるらしいじゃないか」
「だって妊娠してるんですもの。そう言っとかなきゃ先へ行って困るでしょう」
「妊娠?」
アパートに引越した
時期としてはいつ頃だろうか。
1952年秋には、中華料理屋で渡瀬義雄と出会っている。
しかし、会話の最後で妊娠した事実を告げているので、この会話がされているのはもっと後ということになる。
義彦を産んだのが、1954年夏としている。妊娠したのは、1953年秋-冬。つまり1953年の10月時点で鈴木君子は17歳となるので、次の会話がおかしくなるため、この会話は1953年9月頃にされていると推測できる。
(というか、そう決めて進める)

なのでこの時点で、渡瀬義雄と同棲してかなり経っており、嘘をついていることになる。

128 しかし、それから後は大変でした。どう説得しても彼女は産むと言い張ってきかないのです。
「一つの生命が芽生えているのよ。それを医者に殺させるなんて、考えただけでも身震いがするわ。私、人が車にはねられて死んだのを見たことがあるんです。同じことでしょう?」
「全然違うね。これから生れる子の幸せを考えて見ろ。僕は認知しないよ。僕は家長として自分の一家を乱したくないからね。第一、君は母親になるには若すぎるよ。本当は十六歳だろう?」
「子供が生れるときには十七歳になっています」
「それでも若すぎる」
人が車にはねられて死んだのを見た
これは、鈴木君子の実の父親が、死んだときのことを言っているのでは?
鈴木君子が中学三年のとき、進駐軍のジープにはねられて死んだ、というのは事実のようだ。
131 実際、彼女は間もなく宝石店をやめました。中華料理のレジは、上半身しか客には見えませんから、それから二ヶ月ほど働いていましたが、これも黙って、ふいにやめたんです。

(中略)

で、決して忘れたわけではないけれども、さほど気がかりではなくなった頃に、彼女が臨月の腹を抱えて、わが家の応接間に坐って、女房相手に泣いていたというわけです。

二ヶ月ほど働いていましたが
宝石店を辞めて、二ヶ月後に中華料理屋を辞める・・・
だんだん整合性をとるのが大変になってきた。
だいたい「間もなく」という表現がどれくらいなのかということだ。「その七 大内三郎の話」にもあったが、「間もなく」ってすぐのことかと思いきや、その通りに考えると矛盾が出てしまう。
132 花屋に言って、お花だけは毎日沢山届けて頂だい。それだけでいいの。私は何も求めないって言ったでしょう。社長さんのお金を狙って子供を産むみたいに奥さま誤解してらしたけど、私は自分の働きで、子供を育てたいの。幸い、母がいますから、産めばすぐまた働けるわ。社長さん、また使って下さる?」
それから半月して、会社に彼女から電話がありました。
「男の子よ。社長さんに、そっくりよ。お約束覚えていて下さる?お花よ。七号室に沢山、届けて。お願い。アパート中の人たちが、誰が父親か、見定めようと張番をしているの。母も始終いますし。だから、こちらの都合のいい日に、もう一度お電話します。三千八百グラムあったのよ。ええ、昨日。母子とも健在。ありがとう存じます」
それから半月して
沢山家を訪れてから、半月後に出産・・・?
ということは、沢山家を訪れたのは、1954年夏になるのか。

ここでも花のことを言っている。
あと、七号室だったことも確定か。

133 二ヶ月後には、彼女が働きたいと言いますので、日本橋の店で昼から夜までレジをやらせました。

(中略)

また彼女は一年たたぬ間に妊娠してしまったんですよ。

(中略)

ところが、上の子が小学校へ上がった年、それを言うと、彼女は、
「それは嫌。それより、私に売って頂だい。買うわ」
と言ったんですよ。それも毎月五万円という月賦で、ね。可愛いと思いましたよ、そのときは。
それが、隣の角地と裏側にあった小さな店も、いつの間にか買ってあって、ご覧の通りの立派なビルが建ってしまったんですから。あまりの不思議さに、僕の方が唖然としたくらいです。
店の譲渡については、彼女の名義に早いうちにしてありましたが、それを担保にして銀行から借金して土地を買ったと言ってました。
「忘れないでね、パパ。私は税理士の資格があるのよ。簿記学だって伊達にはやっていないわ」
彼女は花やかに笑いました。それに彼女は、よく僕に金を借りに来ました。沓掛の土地を五千坪とか、田園調布に五百坪とか、三年たつと元金を返してくれまいたが、彼女の勘は冴えていましたね。地価の暴騰を見越していたんですよ。彼女が安く買った沓掛の地所などは、今は軽井沢と名を変えています。土地はホテルが買いにきました。面白いほど儲かったと思いますよ。
日本経済の高度成長の波に、彼女はあの若さで、誰より早く乗っていたんです。一級簿記で固定資産税というのを学んだとき、彼女はすぐ実践にとりかかっていたんですな。
僕は現在、六十五歳です。しかし、彼女との関係は、彼女が死ぬ四日ばかり前まで続いていました。昔ほどの精力はありませんが、あの女を知ったら、捨てる男はいませんよ。

二ヶ月後には
義彦を産んでから、二ヶ月後というと、1954年秋頃か。

一年たたぬ間に妊娠
次男義輝の出産については記述が少ない。
1955年春-夏に麻布のアパートを引払い、1957年春には尾藤家に出入りしはじめるので、その間だと思われる。
ただ、義彦と義輝は続けて産んでいると思うので、義彦を1954年夏に出産、二ヶ月後の1954年秋には沢山とよりが戻り、1955年春には妊娠、1956年年明けに義輝を出産という流れか。

上の子が小学校へ上がった年
義彦が1954年生まれなので、小学校へ上るのは1960年。
そうか・・・渡瀬家で狂言自殺をはかり、五千万円を得たのが1959年頃なので、その後ビルを建てる方向へ進むのか・・・

税理士の資格があるのよ
本当に資格を持っていたのか?という疑問が残る。
一級合格の記述はない。

沓掛の土地を五千坪
一坪は、3.3平方メートル。五千坪というと、16500平方メートルか。一辺128メートルの正方形と考えよう。ほほう、なかなかの大きさだ。

今は軽井沢と名を変えて
別にあるときから沓掛が軽井沢に名を変えたわけでもない。軽井沢という言葉は明治から存在していたが、1956年(昭和三十一年)に、沓掛駅が中軽井沢駅に改称されたのと、あとは高度経済成長で軽井沢という名前がブランドになったということでしょう。

彼女が死ぬ四日ばかり前まで続いていました
なーんと。二十五年も関係が続いているとは。

135 それにしても驚いたのは、彼女が二回も結婚してたって、彼女が死んでから週刊誌が書いたことですよ。どこにも僕の名が出てなくて、渡瀬って昔のアルバイト学生との間に二人の子供が出来ていたって書いてあったでしょう。ご丁寧に、戸籍謄本まで写真入りでねえ。僕は信じられんですよ、未だに。そんなとんでもない女じゃなかったんです。心の優しい、嘘のない、どちらかといえば潔癖な女だったんですから、僕以外に男がいたなんて、どの夫も、騙された、騙されたと言ってるようですが、だらしのない奴らだねえ。子供は二人とも僕の子です。次男なんか、僕と瓜二つですよ。お会いになってご覧なさい。しかし子供には、父親のことは何も言ってないようですね。僕は、おじさん、おじさん、と昔から呼ばせていましたからね。今でも、相談相手になっています。僕の子に間違いないんですから。 僕は信じられんですよ
子供が出来たことを知っていただけ、後は何も知らず騙されている。
そしてその子供二人とも自分の子供だと思っている。
沢山は鈴木君子のことを悪女だとは思っていない。二十五年間、巧みに関係した鈴木君子って。

次男義輝は、沢山の子供であろう。

宝石店、中華料理屋と、鈴木君子の働き口を経営して、お金を貸したりと、鈴木君子が財を築くうえでかなりの重要人物だったことがわかる。
また、初読では、ここまで来て、ただ嘘をついて金持ちにのぼりつめただけじゃなく、複数の男と関係しながら生きたことがわかり、がぜんミステリー性が強まると思うのだが、そのあたりどうなのだろう。

ここまでの富小路公子
※富小路公子の誕生日を1936年10月8日で確定し、死亡日を1977年10月8日と仮定しています。

時期 年齢 出来事 備考
丸井牧子とともに、算盤塾に通っていた。
尾藤家に出入りしていた。
貰いっ子である嘘をついていた。
小学生のとき。
1951年 14歳 鈴木君子の父が死亡。八百政をたたんで尾藤家に移る。 中学三年のとき。
1952年3月 15歳 簿記学校の夜学に現れる。  
1952年春頃 15歳 昼間、沢山の宝石店に働きに出る。  
1952年6月 15歳 簿記三級の試験。合格。
早川松夫に送ってもらう。
 
1952年夏 15歳 沢山と関係をもつ。
日本橋の中華料理屋で働きはじめる。
 
1952年秋頃 15歳 渡瀬義雄と出会う。 沢山栄次は簿記学校に現れなくなった。
1952年12月 16歳 渡瀬義雄との同棲がはじまる。
簿記二級の試験。合格。
 
1953年4月 16歳 渡瀬義雄との婚姻届を出す。  
1953年春-夏? 16歳 宝石を持ち込む。一部を残して売り、大内三郎に送ってもらい尾藤家へ。 エメラルド、サファイアのうちどちらかを残して売った。
尾藤家に行った理由は宝石返却?
1953年秋 16歳 このころ、長男義彦を妊娠。  
1953年冬 17歳 宝石店を辞める。  
1954年年明け 17歳 中華料理屋を辞める。 渡瀬義雄がアパートから出て行く。
1954年夏 17歳 沢山家を訪れる。
長男義彦を産む。
部屋の名札は「渡瀬公子」(渡瀬義雄)。
部屋は七号室。
1954年秋 17歳 中華料理屋で再び働きはじめる。  
1955年年明け頃 18歳 麻布のアパート(渡瀬義雄のアパート)に戻ってくる。 義彦はすでに鈴木タネが預かっている。
1955年春 18歳 このころ、次男義輝を妊娠。  
1955年春-夏? 18歳 麻布のアパートを引払う。  
1956年年明け 19歳 次男義輝を産む。  
1957年春頃 20歳 尾藤家に再び出入りし始める。
宝石買取など。
エメラルドと翡翠が返ってこなかった。
1959年 23歳 渡瀬家に乗り込み、狂言で服毒自殺を図る。
手切れ金として五千万円を得る。
渡瀬義雄と協議離婚。
1960年 24歳 日本橋の中華料理屋を購入。  
27歳頃? 大内三郎と再会する。
ビル内の宝石店に引き抜く。
宝石屋を辞めて約十年後のこと。
36歳頃? 尾藤家跡地にドリーム・ハイツが建つ。 土地は沢山不動産が買う。
38歳頃? 丸井牧子を訪問。バラの造花をプレゼント。  
1977年10月 40歳 早川松夫と再会する。  
1977年10月7日
(金曜日)
40歳 早川松夫と電話。食事の約束をする。  
1977年10月8日
(土曜日)
41歳 死亡。 二時以前の出来事。
夕刊に「虚飾の女王、謎の死」。
昼なのにイヴニング・ドレスを着ていた。