その六 里野夫人の話

ポイントとなる証言

ページ(文庫) 証言 解説
76 随分前のことですけど私は同じアパートに住んでましたし、公子さんとは特に気が合って仲良くしてました。
渡瀬さんって人と、その頃は結婚していたんです。ええ、ちゃんとした結婚ですよ。あの人は、結婚したと言って、アパート中の家々に挨拶に来たんですもの。銀の灰皿を配ったんですよ。
銀の灰皿を配った
どこからその金が出たんだろうか。この当時はそこまで経済力があったのか不明だったが・・・「その二十一 鈴木タネの話」によると、尾藤家を出るときに宝石を持っていってるので、それを換金したのでしょうか?
80 指輪がとてもよく似合って、それが毎日のように違うんですよ。
「公子さん、あなたいったい幾つ指輪を持ってるの?」
って思わず訊いたことがあるくらい。そしたら、こう言ってましたよ。
「本当の母から、今の母が預かっていたのを、私が結婚したのだからといって、ぼちぼち出してくれるんです。主人の方から頂いた指輪は、なるべく大事にして、はめないようにしてるんです。万一、ちょっと外して手を洗ったりして忘れでもしたら、大変でしょう?」
指輪がとてもよく似合って
指輪がよく似合う指の持主だったことは、ほかでも語られている。
やっぱり指輪は手放してないのか?
昼も夜も働くことで貯えがあったという解釈でいいのだろうか・・・?
85 新生児室には、翌日の昼出かけて行ったとき、看護婦さんに、渡瀬さんの赤ちゃん見せて下さいと言ったら硝子越しに、六番の籠がそうですというので眺めましたが、どこが渡瀬さんに似ているのか、よく分りませんでした。 どこが渡瀬さんに似ているのか
読んだ後ではっきりするんだが、義彦は尾藤輝彦の子であろう。
86 私は毎日見舞に行って、あの人の下着の洗濯一切してあげていましたから、
「お花が沢山で綺麗ねえ。いったい誰から届くの?」
と訊きました。生花ですから、二日もすれば枯れるものでしょう?それなのに、花束や花瓶の数がふえることはあっても減らないし、どの花もその日届いたように生きいきとしていました。
「いろいろな方たちから。お友だちや、親類や、私これでお付き合いひろい方なんですのね。自分でも驚いてるんですよ。みんな私が美しいものが大好きなの知っていらっしゃるから、お見舞は、みんなお花。
自分でも驚いてるんですよ
とにかくたくさん花を届けてくれと言ったのは富小路公子。
でも、じゃあ何故花がたくさん必要だったのかは謎のまま。
88 ところが、半年もしてから、公子さんが一人でアパートに戻って来て、前々通りの生活が始まったんです。
「その節はお世話になりまして有り難う存じました」
と丁寧に私たちに挨拶はするんですけど、結婚したときのようなお配りものもないし、何日たっても、朝は午前九時頃から出かけるし、夜は十一時頃帰ってくるんです。
私、おそるおそる、
「赤ちゃんは、どうしたの?」
と訊いてみました。
預かって下さる方があったので、そちらにお願いしたんです。私、働かなきゃならないものですから」
と、ちょっと何かを見すえるような目つきで言ってました。渡瀬さんとどうなったのかとは、それ以上訊けませんでした。
半年もしてから
義彦が産まれたのを1954年夏頃と考えているので、半年たつと1955年の年が明けたころだろうか。

午前九時頃から出かけるし、夜は十一時頃帰って
この頃は、宝石店→中華料理店で働いているのか?
その七 大内三郎の話」によれば、義彦が産まれる前に、宝石店は辞めてるっぽいので、別か。

預かって下さる方があった
鈴木タネのこと。

89 ええ、お産のあと一年たたないうちに、公子さんはアパートを引払いました。どこへ行ったのか、私は知りませんでした。十五年もたって、テレビで見たのでテレビ局あてに手紙を出したら、里野百合子ちゃんにって、豪華な外国製の鏡台が届いたのでびっくりしましたわ。義理堅いっていうか、でも凄いでしょう、この鏡台。ハリウッドの女優さんが使いそうで。百合子が結婚するときは持たせてやるつもりでいたんですけど、あの亡くなり方が気がかりでねえ。 お産のあと一年たたないうちに
つまり1955年の夏になる前だ。

ここまでの富小路公子
※富小路公子の誕生日を1936年10月8日で確定し、死亡日を1977年10月8日と仮定しています。

時期 年齢 出来事 備考
丸井牧子とともに、算盤塾に通っていた。
尾藤家に出入りしていた。
貰いっ子である嘘をついていた。
小学生のとき。
1951年 14歳 鈴木君子の父が死亡。八百政をたたんで尾藤家に移る。 中学三年のとき。
1952年3月 15歳 簿記学校の夜学に現れる。  
1952年春頃 15歳 昼間、働きに出る。  
1952年6月 15歳 簿記三級の試験。合格。
早川松夫に送ってもらう。
 
1952年秋頃 15歳 日本橋の中華料理屋で働いている。
渡瀬義雄と出会う。
沢山栄次は簿記学校に現れなくなった。
1952年12月 16歳 渡瀬義雄との同棲がはじまる。
簿記二級の試験。合格。
 
1953年4月 16歳 渡瀬義雄との婚姻届を出す。  
1954年年明け頃 17歳   渡瀬義雄がアパートから出て行く。
1954年夏頃 17歳 長男義彦を産む。 部屋の名札は「渡瀬公子」(渡瀬義雄)。
1955年年明け頃 18歳 麻布のアパート(渡瀬義雄のアパート)に戻ってくる。 義彦はすでに鈴木タネが預かっている。
1955年春-夏? 18歳 麻布のアパートを引払う。  
1957年春頃 20歳 尾藤家に再び出入りし始める。
宝石買取など。
エメラルドと翡翠が返ってこなかった。
1959年 23歳 渡瀬家に乗り込み、狂言で服毒自殺を図る。
手切れ金として五千万円を得る。
渡瀬義雄と協議離婚。
36歳頃? 尾藤家跡地にドリーム・ハイツが建つ。 土地は沢山不動産が買う。
38歳頃? 丸井牧子を訪問。バラの造花をプレゼント。  
1977年10月 40歳 早川松夫と再会する。  
1977年10月7日
(金曜日)
40歳 早川松夫と電話。食事の約束をする。  
1977年10月8日
(土曜日)
41歳 死亡。 夕刊に「虚飾の女王、謎の死」。
昼なのにイヴニング・ドレスを着ていた。