その四 渡瀬義雄の話

ポイントとなる証言

ページ(文庫) 証言 解説
47 彼女に会ったのは、昭和二十七年の秋でした。日本橋にある中華料理店でした。

(中略)

彼女はそこのレジをして働いていました。店がしまうと、どうしても帰る時間が一緒になりますから、若ければ当然という結果になりますよね。

日本橋にある中華料理店
後の「その九 沢山栄次の話」で詳細は語られるが、この中華料理店も沢山の経営してた店ですな。
48 最初の夜から一ヵ月ほどして、つまりその年の暮でした。彼女は自分の身のまわり品を持ちこんで居坐ってしまったんですが、その頃は僕も惚れてましたから気にも止めていませんでした。

(中略)
店の主人というのが、今じゃ中小企業の英雄ですよ。沢山って、お聞きになったことありませんか。身許を洗えば何をやっていたか、怪しいものですが、ともかく当時で五、六軒の料理屋を経営してましたね。

その年の暮
その二十一 鈴木タネの話」をあわせて検証すると、尾藤家を出て親子でアパート暮らしをはじめてしばらくして、鈴木君子はアパートを出る。その後、渡瀬義雄のところへ移ったのだろう。
そうか、こうやってまとめてみてわかったが、簿記二級に合格したころは渡瀬義雄のアパートにいたのか・・・
50 彼女のセックス?露骨なことをお訊きになりますね。淡白でしたよ、ええ。 セックス
これも、造花のエピソードと一緒ではっきりしない仕掛け。
読んだ人はわかると思うが、要するに相手によって内容が違うのだよな。で、じゃあそれで何を表現したかったのかがはっきりしない。
淡白だったイコール愛情はなかった、濃厚だったイコール本気だった、程度の表現なのか?と読者が戸惑う部分なのではないだろうか。
51 就職すると先輩たちが夜遊びを教えてくれます。女買って、酒飲んで帰っても、あの女は嫌な顔一つしないんですよ。だから、こっちも出て行けって怒鳴る口実がないんですよね。
「おい、いつまでここにいる気なんだ」
「どうしてそんなこと仰言るの。私はあなたの妻なのよ」
「結婚式あげてなくても妻なのか」
「だって、アパートの皆さんたち、私のこと奥さん、奥さんって仰言るわよ」
同棲がはじまったのが渡瀬義雄の大学卒業前なので、翌年になってもまだ暮していたわけだ。
51 入社して二年目、僕の家の方からも社の上司からも縁談が次々舞いこむようになりました。僕は彼女には何も言わず、自分の荷物を少しずつ片附け始め、代りのアパートを物色しだしたんです。それに彼女が気付いたんでしょう。
「ねえ、出来たらしいのよ」
僕は仰天しました。
入社して二年目
ということは、鈴木君子は17歳になっているのか?
そうなのか・・・そうなるよな。
もうちょっと早く産んでいるんだろうなと思ってたが、違うようです。
54 彼女の方から、半年もたって、会社に電話がかかって来て、
「生まれたのよ!男の子なのよ!あなたにそっくりだわ、見に来て頂だい!」
と言われたときは、目の前がまっ暗になりました。
半年もたって
入社二年目になって、その半年後であれば9月や10月になる。・・・10月で鈴木君子は18歳になるのか。
その二十四 長男義彦の話」の中で、富小路公子が「16歳で妊娠し17歳で産んだ」と言っているが、ちょっと食い違ってくるのでは?
仮に17歳になる直前(例えば9月とか)で妊娠したとしても、産まれるのは10ヵ月後だろうからせいぜい7-8月くらいに産まれるんだろう。

どっちの証言も信じるとして、おそらく入社二年目という言い方が、1月のことを指すのであれば、半年後が7-8月だから、成立する。

どうだろうこの推測で。

54 病室の番号は分りましたが、そこに掛っている名札を見て驚きました。渡瀬公子。僕の苗字じゃないですか。参りましたねえ。が、勇気をふるって部屋に入りましたよ。
「義雄さん、やっぱり来て下さったのね。嬉しいわ」
声は相変わらずもの静かでしたが、彼女の着ているものや部屋に飾りたててある花束が尋常じゃないんです。
名札
義彦が産まれたときに病院を訪れる男が複数いるが、その都度食い違ってくるのがこの名札。
鈴木君子が訪れる相手によって変えていたのか?でもそんなこと病院で勝手にやっていいの?と読者が戸惑うところ。

花束が尋常じゃない
これも上の名札と並行して出てくるエピソードだ。関係してる男どもに花束をたくさん贈ってくれ、とお願いしている。
これは何でしょうね。単に花に囲まれたいという性格を表現しているのでしょうか。それとももっと深い何か?

56 「名札がみんな僕の苗字になっているね」
「産気づいたとき、アパートの人たちが大騒ぎして担ぎこんでくれたから、私の知らないうちにそうなってしまったのよ。みんな私があなたに捨てられたの可哀そうに思ってるんじゃないかしら」
「はっきり言っとくが、僕は迷惑だ」
僕は人間的に自分のやってることが卑劣だと思わないではなかったのですが、それでもこの女をおぞましく感じ、別れたくなった理由は、この女のこういうしたたかさを感じたからだったのだ、負けてはいられないという気でいました。
この女のこういうしたたかさを感じた
これは、特に何かキーワードってわけじゃないけど。
富小路公子と関係していて、彼女を悪女だと判断しているのは渡瀬義雄だけ。ほかの人は気づいていない。
ここの、「僕は人間的に…負けてはいられないという気でいました」というのは、有吉節が炸裂していると思う。
58 僕が結婚することになったのは、それから五年もたってからでした。僕は三十歳近くなってました。 それから五年
1958年頃だろうか。
59 僕は六年も前に結婚してたんですよ、鈴木君子という女と。あの子供が生まれる一年前に、婚姻届が出ていたんです。しかも、子供がですよ、二人も生れているんです。渡瀬義彦。渡瀬義輝。
(中略)
僕が就職するについては、戸籍妙本を何枚をも取り寄せましたからね。彼女は本籍をそのとき見ていたんでしょう。新憲法では、結婚すると親の籍から離れますからね。僕の本籍は麻布にあった元のアパート、あの住所に変ってしまっていたのです。世帯主が僕で、妻が君子で、子供が二人。公子という字を書いていたが、戸籍ではありきたりの鈴木君子という姓名だったことも、そのとき分りました。
一年前に、婚姻届が出ていた
これが富小路公子の最初の結婚。
16歳で結婚したことになるな。

麻布にあった元のアパート
その六 里野夫人の話」でわかるが、富小路公子は義彦を産んだあと、アパートに戻る。その一年後に引払ったというから、この結婚が発覚した時点ではもう、アパートにはいなかったのだということになるが。・・・普通、気付かないもんかね。

渡瀬義雄は、鈴木君子にとって「都合のいい人間」だったんでしょうかね。実家にのりこんで財産をむしりとることになるが、実家に財産があったことまで知ったうえで同棲を始めたわけではないでしょう。沢山や尾藤と関係を持った上で、それでも都合のいい人物(というより住む場所)が必要だった、ということか。

ここまでの富小路公子
※富小路公子の誕生日を1936年10月8日で確定し、死亡日を1977年10月8日と仮定しています。

時期 年齢 出来事 備考
丸井牧子とともに、算盤塾に通っていた。
尾藤家に出入りしていた。
貰いっ子である嘘をついていた。
小学生のとき。
1951年 14歳 鈴木君子の父が死亡。八百政をたたんで尾藤家に移る。 中学三年のとき。
1952年3月 15歳 簿記学校の夜学に現れる。  
1952年春頃 15歳 昼間、働きに出る。  
1952年6月 15歳 簿記三級の試験。合格。
早川松夫に送ってもらう。
 
1952年秋頃 15歳 日本橋の中華料理屋で働いている。
渡瀬義雄と出会う。
沢山栄次は簿記学校に現れなくなった。
1952年12月 16歳 渡瀬義雄との同棲がはじまる。
簿記二級の試験。合格。
 
1953年春?夏? 16歳 渡瀬義雄との婚姻届を出す。 渡瀬義雄が入社した直後か。
1954年年明け頃 17歳   渡瀬義雄がアパートから出て行く。
1954年夏頃 17歳 長男義彦を産む。 部屋の名札は「渡瀬公子」(渡瀬義雄)。
1957年春頃 20歳 尾藤家に再び出入りし始める。
宝石買取など。
エメラルドと翡翠が返ってこなかった。
36歳頃? 尾藤家跡地にドリーム・ハイツが建つ。 土地は沢山不動産が買う。
38歳頃? 丸井牧子を訪問。バラの造花をプレゼント。  
1977年10月 40歳 早川松夫と再会する。  
1977年10月7日
(金曜日)
40歳 早川松夫と電話。食事の約束をする。  
1977年10月8日
(土曜日)
41歳 死亡。 夕刊に「虚飾の女王、謎の死」。
昼なのにイヴニング・ドレスを着ていた。