その三 浅井雪子の話

ポイントとなる証言

ページ(文庫) 証言 解説
34 え?学習院?誰がでございますか?まあ、私が学習院ですって、誰がそんなこと言ったんですの。私は中学から青山学院でございましてよ。私の母は、学習院を出ましたので、その間違いじゃございませんでしょうか。

(中略)

母は、五年前になくなりまして、財産税を払うために此処の家は処分したのでございます。土地は沢山不動産というところが買ったと聞いておりましたが、このドリーム・ハイツの持主は富小路公子さんです。それで兄に相談しましたらやめるように申したのですけれど、でも住宅難でどこもお高いでしょう?それで私、直接富小路さんにお会いして、少しお安くして頂けないかって頼んでみたんです。そしたら、とても気持よく割引いて下さったんですの。

(中略)

兄は今ニューヨークにおります。サラリーマンです。はい、私より四つ年上で

学習院
幼稚園から大学まである。普通学習院と言えば大学をさすでしょう。皇族が通ったり。
オノ・ヨーコや仲本工事も学習院卒なんだと。

青山学院
偏差値的には学習院と同じくらい。ミッション系。
桑田佳祐とか和泉元彌とか渡哲也とか大竹まこととか。

沢山不動産というところが買った
沢山栄次のこと。沢山不動産って、ほかの話に出てきただろうか?

私より四つ年上で
尾藤輝彦のことで、つまりは君子と輝彦の年齢差も四つだということになる。

36 「富小路公子だわ。名前の方も違ってるわ。君子と書いたのよ、前は」
「富小路というのは、京都にある通りの名だけど、公家華族にはない筈よ」
京都にある通りの名
これも時々出てくる証言。ちなみに本当にある。(参考
浅井雪子の母は、公家華族にない、と言っているが、逆。公家の富小路にちなんで、通りに名前がつけられたそうな。
38 随分たってから、母が「まああ」と申しました。え?はい、「まああ」と言うのは母の口癖だったんでございます。私はわざと真似して面白がることはありましたけど、私にはうつりませんでした。 まああ
富小路公子の特徴の一つ。ルーツは浅井雪子の母だったことがわかる。
39 鈴木さん母子を私のところへ引取ってしまったんです。同情もむろんありましたけれど、母にとっては、女中と小間遣いを手に入れる絶好のチャンスだと思ったんじゃないでしょうか。

(中略)

家には一年おりました。八百屋は借店だったらしくて、なんの貯えもない上に、おばさんは寝たきりで何の役にもたちませんでした。

家には一年おりました
その二 丸井牧子の話」の証言通り、鈴木君子の父が死んでから、尾藤家に引取られたことをしめす。
そこから一年いた、とある。君子の父の死がいつごろなのかつかめないが、「その一 早川松夫の話」では、六月に三級の試験があり、そのとき尾藤家に送っているので、その時点では確実。
40 鈴木さんは公立の中学校に行ってたんです。
「中学が義務教育でなかったら」
と、あるとき言って涙ぐんだのを覚えてます。だったら働きに出られたという意味だったようでした。私はそのとき小、中学校が義務制度だということを初めて知って驚いたのを覚えてます。
鈴木さんは義務教育を終ると、夜学へ行くようになりました。
夜学
簿記の学校のことですね。
義務教育でなかったら、と涙ぐむ行動は、意外な感じ。
そういったところを見せないような気もするけど。
40 その年の秋頃でしたかしら、私が高校へ入る頃でしたかしら、鈴木さんが働き口が見つかったと言って、昼間も出て行くようになって、その頃にはおばさんも元気を取戻して、一人前の女中として働くようになっていたんです。 働き口が見つかった
その九 沢山栄次の話」から判明するが、簿記三級にパスする時点でもう宝石店で働いているので、浅井雪子が高校に入る頃、という方があってる。3月に夜学に現れ始め、4月?5月にはすでに働き始めていたのだろう。
41 一度か二度、私がクラブ活動で帰りが晩くなったとき、あの人、男の人に送られて帰ったことがあったのを見かけたことがあります。ええ、家の勝手口は錠をかけてなかったんです。 男の人に送られて
その一 早川松夫の話」および「その七 大内三郎の話」を参照のこと。二度あったと。
43 私が青山の短大を卒業する前後でした。鈴木さんが、
「近くに参りましたので」
などと言って、又出入りし始めたのは。
青山の短大を卒業する前後
ということは、1957年(昭和三十二年)3月前後ということか。20歳のとき、ということになる。
45 あら雪子さん、御婚約。おめでとうございます。それじゃ、これを指輪にセットし直しましょう。やっぱりダイヤモンドの方が、およろしいでしょう。この翡翠のまわりのダイヤで、一文字と、こちらのエメラルドのペンダントのダイヤで結婚指輪を作って来て差上げますわ」
静かな声なんですけど、話上手なんですわね、たちまちのうちに残っていた二つの宝石を持って帰って、二週間くらいで、私の指輪は届きましたわ。でも、翡翠とエメラルドは返って来ませんの
「雪子さんに、このセット代はささやかながら私のお祝いにさせて頂きますわね」
でも、それっきりですの。翡翠もエメラルドもそれきりですのよ。母はこだわってませんでしたけど、なんだか消えてしまったような気がしますわ。
翡翠とエメラルドは返って来ませんの
エメラルドと翡翠が消えた。この宝石がらみのエピソードは細かく追えるのか不明なんですけど(どの宝石がどこへ移動したのか、とか)、・・・まあここでは宝石が消えたことに注目しておきましょう。
46 あの方、ネグリジェで死んでいたんでしょう?え、イヴニング・ドレスを着ていたんですの?でも、あれ昼間の出来事でしたんでしょう?それで、どうしてイヴニング・ドレスを着て、殺されていたのかしら。自殺って書いてた週刊誌もあったようですけどねえ。 イヴニング・ドレス
これについては「その二十三 小島誠の話」に詳しい。

ここまでの富小路公子
※富小路公子の誕生日を1936年10月8日で確定し、死亡日を1977年10月8日と仮定しています。

時期 年齢 出来事 備考
丸井牧子とともに、算盤塾に通っていた。
尾藤家に出入りしていた。
貰いっ子である嘘をついていた。
小学生のとき。
1951年 14歳 鈴木君子の父が死亡。八百政をたたんで尾藤家に移る。 中学三年のとき。
1952年3月 15歳 簿記学校の夜学に現れる。  
1952年春頃 15歳 昼間、働きに出る。  
1952年6月 15歳 簿記三級の試験。合格。
早川松夫に送ってもらう。
 
1952年秋頃 15歳   沢山栄次は簿記学校に現れなくなった。
1952年12月 16歳 簿記二級の試験。合格。  
1957年春頃 20歳 尾藤家に再び出入りし始める。
宝石買取など。
エメラルドと翡翠が返ってこなかった。
36歳頃? 尾藤家跡地にドリーム・ハイツが建つ。 土地は沢山不動産が買う。
38歳頃? 丸井牧子を訪問。バラの造花をプレゼント。  
1977年10月 40歳 早川松夫と再会する。  
1977年10月7日
(金曜日)
40歳 早川松夫と電話。食事の約束をする。  
1977年10月8日
(土曜日)
41歳 死亡。 夕刊に「虚飾の女王、謎の死」。
昼なのにイヴニング・ドレスを着ていた。